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大宮の火災から考える風俗産業


 12/17、大宮の風俗店が入るビルで全焼規模の火災があり、客・従業員ら4人が死亡したことが複数のメディアで報じられている。NHKの記事によると、火元は2階のごみ置き場だったようで、そこにはタバコの吸い殻も置かれていたかもしれないということだ。また、この建物は2016年6月に行われた消防による立ち入り検査で、消防設備には問題はなかったが、避難経路に障害物が置かれているとして、改善指導がなされていたようだ。このようなNHKの記事をから推測すると、タバコの火の不始末という、とてもあり触れた火災の原因だと想像することが出来る。現場が風俗店だったことは、火災の原因とは直接的な関係がないように思える。
 風俗店での火災ということを報道各社が強調していることは、野次馬根性・興味本位的に思え、やや違和感を感じるが、例えば、中華料理屋で火災が起きれば”飲食店での火災”と報じられるだろうから、絶対的におかしいと言えないことも間違いない。少しもやもやした気分になったが、それは自分が、社会一般に風俗店・性産業を見下す風潮があると思っている、というか、実際にそのような風潮があることがその理由かもしれない。この火災の報道を見ながら感じたことは二つある。一つ目は前述の、風俗店や性産業を見下す風潮に関する違和感で、もう一つは風俗店の建物に関する話だ。


 まずは風俗店や性産業を見下す風潮に関してだ。世間一般では風俗嬢やAV嬢などを汚れた存在のように捉える者が、男女ともにいる。また、風俗店の経営者やAV業界の人々は総じて、女性を食い物に金を稼ぐ卑しい者だと考えている人もいる。これから書くのは、そのような考えを持った、特に男性に対して自分が感じる違和感についての話だ。男性の多くは、小学校高学年から遅くとも20歳ぐらいまでの間に異性に性的な興味を持ち始めると思う。それはとても普通なことで、興味を持ち始めたら、女性の裸を見たいという衝動に駆られるのも至って普通だ。そして、エロ本なのかDVDなのか、ネットの画像なのか無料動画なのかは分からないが、異性に興味のある男性の大多数が、少なくとも1度は商業ベースのポルノ作品の”お世話”になっているはずだ。現在では、成人男性に限れば、アダルトビデオを見たことがないという者の方が確実に少数派で、見たことが一度もないなんてうっかり言うと、異常者扱い(勿論冗談半分で)されることもあるだろう。それぐらいAVは日本人男性にとって身近なものだし、誰もがお世話になっているものだろう。
 風俗店は流石にAVよりは利用者の割合は減るだろうが、それでも風俗店を利用したことがあるという男性も少なくはないだろうし、もし利用したことがあると宣言しても、AVを見たことがないと宣言する程は異常者扱い(再確認だが、勿論冗談半分で)されることはないだろうか。AVに比べれば一段階身近さは低くなるかもしれないが、それでも利用しただけで異常者扱いされるようなものでもないことは間違いないだろう。
 「客として来店した年配の男性が、風俗嬢に『こんな破廉恥なことして恥ずかしくないのか!親が泣くぞ!』などと説教する」という、よく聞く風俗店に関する笑い話がある。風俗店に積極的に性的サービスを受けに来ている自分を棚に上げて何言ってるんだよ(笑)、と誰もが思うような滑稽な話だ。この話を滑稽だと感じるなら、AVや風俗店のお世話になっているのに、AV嬢や風俗嬢、制作者や経営者を汚いとか卑しいとか見下していることも、確実に滑稽だと思えるはずだ。なのに、何故か世の中ではそのような認識が薄いように自分には思える。日本人の、特に男性は、前述の笑い話に出てくる説教客のような者ばかりということだろうか。
 
 もう一つは風俗店の建物についての話だ。現在風俗店は店舗型と無店舗型の2種類がある。いろいろな店の定義・種類があるかもしれないが、店舗型はファッションヘルスやソープランドなど、無店舗型はデリバリーヘルス・略してデリヘルがある。現在、日本の多くの地域では条例などによって店舗型の新規出店が難しい状況で、デリヘルが日本中どこにでもある風俗店の形態になりつつある。店舗型、特にソープランドは新規出店がほぼ出来ないような状況になっており、新しい店を出すには、これまで営業していた店の権利・建物を引き継ぐしか方法がないようだ。新しい店ではなく店名の変更というような体裁でなくてはならない。
 自分は一時期ソープランドに月1くらいでお世話になっていた。お世話になっていたのは、いくつか系列店があるような店で、休日の待合室にはいつも客が多くいたし、仲良くなったその店のお姉さんの話では、ホストクラブに初回来店した際に、そのグループで働いていると言えば、太客(金を使ってくれる客)候補としてホストが指名を求めて群がってくるということだった。最後の話は少し大げさな部分もあるかもしれないが、要するに、そのグループの店は儲かっていると感じさせる要素が複数あったということだ。
 そんな儲かっていそうな店にもかかわらず、店舗は昭和30~40年代風の建物で、ところどころ傷んでいたし、部屋によってはシャワーが温まるのに時間がかかるなど、「なぜ設備を新しくしたり、建て替えたりしないのか?」と不思議に感じていた。これに関しても、前述のお姉さんに聞いたところ、ソープは新しく出店出来ないという条例があり、建て替えや全面改装は新規出店と見なされてしまうので、本当にどうしようもない時だけ自治体の担当部署(保健所?)に申請して工事を認めてもらっているということだった。少し興味が湧いてネットで調べてみたところ、自治体や地域による差はあるようだが、店舗型風俗店、特にソープランドは概ねこのような状況にあるようだった。
 今回の大宮の火災の原因は建物や設備の欠陥ではないようだが、もし店舗の改装や建て替えが容易だったら、2016年6月に指摘されたという、避難経路に物が置かれてしまうような間取り・構造を改善することが出来ていたかもしれない。犠牲者が出ないような避難しやすい建物になっていたかもしれない。今年・2017年8月に築地の場外市場で大規模な火災があったが、あの火災の主な原因は木造の建物の老朽化だった。個人的には昭和中期以前の趣のある建物、趣は無くても当時を感じさせる建物も嫌いではないが、設備の更新ぐらいは自由に出来てもよいのではないだろうか。
 
 新築や全面改装を認めないという方針は、性風俗店をどんどん先細らせて無くそうという思惑による方針だと自分は思う。しかし、一説には日本の性犯罪発生率は、多様な性風俗産業の存在によって、他の国より低く抑えられているという話もある。その説に妥当性があるかどうかという話もあるし、その他の問題も当然あるとは思う。そして、自分も無制限に性風俗店を増やせなんてこれっぽっちも思っていないが、既存の店の建て替えや改装を基本的には認めていないという話は、火災対策だけでなく耐震性の観点からも適切だとは思えない。店舗の安全性が維持できないなら廃業しろというのも、他の業種の店舗ではあり得ない話だろうし、それも適切とは思えない。大体この手の話も、性産業を見下す風潮に由来している部分が決して小さくないと自分は思う。

 そんなことを、大宮の火災のニュースを見ながら考えてしまった。

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