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「尊い犠牲の上に、現在の平和がある」という首相の発言に感じる強烈な違和感


 9/11に開幕した東方経済フォーラムに出席する為に、安倍首相は今週、ロシア・ウラジオストクを訪れていた。ロシアのプーチン大統領が突然、一切の前提条件抜きにして年末までに平和条約を結ぼうと提案したことに大きな注目が集まり、苦笑いすることしかできなかった安倍首相に対して、様々な見解が示されている。それでも安倍首相は帰国後の今日・午前の自民総裁選に関する討論会で、「地球儀を俯瞰する外交で存在感を取り戻した」と、その成果を強調したそうだ。現政権下では北方領土問題に関しても、北朝鮮の拉致問題に関しても大した進展がない。勿論その前民の主党政権も自民政権でもこれらの問題には、小泉政権以降殆ど進展がないが、安倍首相は一体何をもって成果だと考えているのだろうか。もし万が一アメリカとの関係維持・強化が成果だと思っているのだとしたら、そんなのは成果でもなんでもなく既定路線の単なる継承に過ぎない。
 安倍首相は、頼みの綱の経済面でも都合の良い数字を強調するだけで、物価上昇率の目標が達成できていないこと・可処分所得の減少等都合の悪い、というか改善が必要な問題点にはあまり触れない。外交に関しても同様で、耳障りのよい言葉を支持者向けに発信しているようにしか見えない。彼に現状を適切に認識する能力が本当にあるのか疑問だ。あると言うのなら、是非言動でそれを示して欲しい。


 安倍氏の訪露に関して、とても大きな違和感を感じたのは9/13の彼のツイートだ。産経新聞の記事によると、彼は帰国直前に、ウラジオストクに隣接するアルチョムにある日本人抑留中死亡者慰霊碑を訪問し、献花・黙祷したそうだ。それに関して彼は以下のツイートをしている。



彼が首相として、戦争の犠牲になった人達の為に慰霊碑を訪問することは、ごく当然と言うか何も不自然なことはない。しかし自分は彼が用いた「こうした尊い犠牲の上に、現在の平和がある」という表現に強烈な違和感を感じる。これでは、犠牲がなければ今の平和は成り立たなかったとでも言いたいように見える。果たして現在の平和の為に、先の大戦の犠牲は必要不可欠だったのだろうか。必要不可欠は極端だとしても、それがなければ現在の平和は得られなかったのだろうか。自分には全くそうとは思えない。
 日中戦争・太平洋戦争での甚大な犠牲は、単に当時の政府・軍の愚策の犠牲であって、決して尊い犠牲ではなく愚策によって無駄に命を落とした犠牲ではないのか。日中・太平洋戦争を政府や軍が起こさなければ犠牲にならなくて済んだのではないか。「尊い犠牲の上に、平和がある」なんて、当時の政府や軍の愚策を棚に上げ、棚に上げるどころか「現在の平和」の為に必要なことで、愚策の犠牲ではなく、必要な尊い犠牲だったと美化しているようにさえ聞こえる表現を、首相がするなんてどうかしているとしか言えない。

 自分は彼のこのツイートを見て、



とツイートした。「犠牲がなければ平和が大事と気付けない馬鹿ばっかりだったのか?」と書いたが、これは当時の日本政府は馬鹿ばかりではなかったと言いたくて用いた表現ではない。安部氏が「犠牲がなければ日本人は平和が大事と気付けなかった」という意味で「尊い犠牲」という表現を用いたのならば、明確にそう表現するべきだと考えて用いた表現だ。
 いつもこのブログでツイッターの文字数制限で分かり難い主張になってはならないと言っているのに、自分の表現もそうなってしまっていると思い、これについて反省し、ここで説明することにした。

 個人的には安部氏が「犠牲がなければ日本人は平和が大事と気付けなかった」という意味で「尊い犠牲」という表現を用いたなんて全然受け止められない。彼は余りにも直接的な表現だと内外から指摘を受けることを勘案し、それを避けてはいるが、彼の積極支持者らの好む表現を用いているように思う。彼の本意がどのあたりにあるのかは定かでないが、もし彼に過去の戦争を美化する意図が明確にはなかったとしても、そう読める主張を首相という立場で発信している時点でかなり残念だ。かなり残念なんて話で済まないくらいの強い懸念を感じる。
 個人的には、基本的には靖国神社を政治家や首相が参拝しようが構わないとは思うものの、首相がこのような感覚を持ち合わせているのなら話は別で、彼は戦争を美化する目的で参拝・玉串料奉納等を検討・実施しているようにも見えてしまう。

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