自分が中高生だった頃、つまり1990年代中盤、バイクの流行はレーサータイプブームが終わって、ネイキッドが流行ってはいたものの、時はビッグスクーターブーム前夜であり、勿論地域差もあったのだろうが、決して全くいないわけではなかったがトップ画像のようなあからさまにそれと分かるタイプの暴走族は殆どいなかった。
だがその頃はまだヤンキーや暴走族を描いた漫画も多く、そして人気を誇っていた。90年代少年マガジンは「カメレオン」「湘南純愛組!」「特攻の拓」という3巨頭を擁していた。カメレオンは1990年連載開始・2000年終了、湘南純愛組は1990年連載開始・1996年終了と連載期間ではカメレオンに及ばないが、1997年には続編のGTOの連載が始まっている。特攻の拓も1991年連載開始・1997年終了と、連載期間は湘南純愛組と同程度だが、2011年にスピンオフ作品がヤンマガで連載された。更に2017年からは「疾風伝説特攻の拓~AfterDecade~」が連載中だ。関連作品で言えば湘南純愛組・GTOも多く、こちらも現在も「GTO パラダイス・ロスト」の連載が続いている。
このように、1990年代ヤンキー・暴走族マンガはとても人気が高かった。特攻の拓・湘南純愛組/GTOの続編は、主に当時の読者をターゲットにしているのだろうが、それでビジネス的に成立するということは、つまりそれらの人気が絶大だということだろう。前述のように、連載当時既に自分が住んでいた地域ではあからさまなバイクに乗っている暴走族はかなり少なかったし、またそれらの漫画に出てくるようなリーゼントに変形学生服を着るようなタイプの中高生はほぼいなかった。
いや、ボンタンやドカンと呼ばれる変形学生服を着ている者はそれなりにいたかもしれない。しかしパンチパーマやリーゼント、剃りこみなどの髪形は全くと言っていい程見かけなかった。つまりヤンキーでない、暴走族ではない中高生がヤンキーマンガを面白がって呼んでいたのだ。そうでなければそれらの漫画が絶大な人気を誇るわけがない。つまり、勿論実際にヤンキーで、暴走族をやっていて、若しくは強い憧れをもっていて、その種の漫画を好んだ者もいるにはいたのだろうが、読者の大半はヤンキーになりたくて、暴走族をやりたくてそれらの作品を読んでいたわけではなく、あくまで創作として、つまりフィクションとして楽しんでいた、というのがその実状だろう。
前述の3作品の中で、最も暴走族にフォーカスした作品が特攻の拓だ。特攻の拓は佐木 飛朗斗原作、所 十三作画の作品である。所さんは特攻の拓以外にも多くのヤンキーマンガを手掛けているが、2010年以降は恐竜や古代生物をテーマにした漫画も複数描いている。
所さんはSNS・ツイッター上で積極的に前/現自民党政権を批判しており、しばしばそれらの積極的な支持者らに嫌がらせと言っても過言ではないような反応を示されている。彼らの典型的な手法が、「暴走族を美化するような漫画を描く反社会的な奴が何言ってんの?w」のようなものだ。
「こんな人」も何も、日本の少年漫画の主人公達が権力の不正に目をつぶったり尻尾を振ったりするわけがないし社会的弱者を差別したり切り捨てたりも絶対しない。
— 所 十三 (@tokoro13) November 26, 2020
そんな強く優しい主人公達に読者は喝采を送ってくれた。
ここ数年昔ながらの漫画文化を理解できない日本人が増えてしまったようだ。 https://t.co/K7YhUYcG6L
確かに所さんの描くヤンキーマンガ、特に特攻の拓では、道交法を無視する暴走族が沢山描かれているし、一般市民や警察官に暴力を振るったり、パトカーを破壊したりするシーンも多い。しかしそれはあくまでフィクション、漫画であり、前述のように読者の大半はそれを前提に読み物として楽しんでいた。
暴走族マンガを描くことは果たして反社会的な行為だろうか。勿論暴走族マンガを読んで感化されて違法な行為に至った少年などもいるだろうが、しかし大半はそうはなっていない。その少数の為に表現を規制しろというのは果たして妥当だろうか。フィクションはあくまでフィクションである。やくざの抗争を描いた仁義なき戦い、最近で言えばアウトレイジなどを見て暴力行為に走る者がいるからそんな映画を公開するのは反社会的だ、と言えるだろうか。戦争を美化する者が出てくるから戦争をテーマにした映画を作るな、漫画を描くなという話が果たして妥当だろうか。作品を読んで・見てそれを真似るのはあくまでも受け手側に責任がある行為だ。フィクションをフィクションと理解できない者に責任がある。
つまりその種の批判は整合性に欠けている。妥当性が低い。「ヤンキーマンガやヤクザ映画、そしてそんな作品を作る者も反社会的」といった主張をする者もまた、フィクションと現実の区別がついていないとしか言えない。
特攻の拓連載当時、ヤンキーでも暴走族でもなく、なりたいわけでもなかった自分にとって、最も印象的だったのは次のシーンだ。
このシーンの2人は主人公らが通う暴走族の巣窟のような高校の教員で、女性は彼らに一定の理解を示す保険医、男性は彼らをどうにか更生させたいと思っているが、どうすることもできない新人教諭だ。
以前にも書いたことがあるが、自分の実家は神奈川県厚木基地から直線距離で10km圏内にあり、頻繁に米軍や自衛隊機が飛んでくる。冒頭に、あからさまな違法改造車に乗った暴走族は殆どいなかった、と書いたが、空ぶかししながら走り回るような者達は相応にいて、国道246や16号が近いこともあって、週末などにはその音が結構聞こえてきた。つまりこのシーンで描かれている
窓ガラスが震える程の”轟音”で住宅地の上を超低空飛行する戦闘機は合法で…
マフラーを切った単車に乗ってる子は”まるで人殺し”のようにオマワリに警棒で殴られる…
という話は、 とても身近に感じられた。戦闘機という人殺しの道具が飛び回るのは合法で、マフラーを切った単車は”まるで人殺し”のように嫌悪される、という対比も印象に残った理由だったのかもしれない。また当時は、リクルート事件/佐川急便事件など自民政権の金権政治が大きな問題になっていた頃でもあり、学生のシャーペンの万引きと政治家による億単位の不正の対比も、印象に残った理由だろう。
特に後者の状況は今も変わっておらず、コンビニセルフコーヒーのSサイズカップにLサイズ分のコーヒーを注いだ者は逮捕されるのに、支持者を買収していたのに、頑なにそれを認めず嘘を並べ立てていた首相は何故か見逃されてきた。フィクションですら暴走族や不良を嫌悪する一方で、国会で平然とあからさまな嘘を吐く首相やその周辺の政治家・官僚は全く気にならない人達も決して少なくない。
このシーンが印象的だった旨を前述の所さんのツイートへのリプライとして投稿したところ、次のようなリプライがあった。
相殺法の典型的な例ですね…
— 🍄🍁エピメテオ🌰🍂 (@9joism) November 26, 2020
一般的には詭弁と言われてしまう論法です。
このアカウントは、タイムラインを見ると所さんが気に入らないようで、頻繁に所さんのツイ―トを引用リツイートして批判をしたり、所さんを批判する他のアカウントのツイートをリツイートしたりしている。「一般的には詭弁と言われてしまう論法です」なんてことは、言われなくても分かる。何故か。それはマンガ自体に「キベンですよ?そんなの」「それは問題のすり替えじゃないですか!?そんな理屈は」と書いてあるからだ。つまり読んでいる側も、原作の佐木さんも作画の所さんもその前提だ。
しかも「あの子達を”正当化する気もナイし…”弁護”する気もナイけど」「いってるでしょ?別に”彼ら”を正当化する気はナイって…」という台詞まであるのに、つまりマンガにそう書いてあるのにその部分は全く無視して、鬼の首を取ったように「一般的には詭弁と…」なんて言っているのかと思うと、おかしくて仕方がない。
このアカウントは、反応がなかったからか、この投稿を書いている最中に同じ文面を今度は引用リツイートしてきた。
相殺法の典型的な例ですね…
— 🍄🍁エピメテオ🌰🍂 (@9joism) November 27, 2020
一般的には詭弁と言われてしまう論法です。 https://t.co/1K2oOhommH
「私は自分に都合のよい部分しか読んでいません!」と、そんなにアピールしても、結局反応は集まらないだろう。このようなご都合主義タイプ且つ粘着質な人複数に付きまとわれる所さんは、勿論ミュートなどを使って目に入らないようにはしているのだろうが、それでもストレスは決して少なくないだろうなと感じる。