日本語の乱れなんてことがしばしば言われる。乱れかどうかはわからないが言葉は時代とともに変化するもので、このような話題は現代特有のものではなく清少納言の枕草子にも、所謂、若者言葉を嘆くという話がでてくる。ある時点では間違いだったり、嫌悪の対象だった表現が時代を経ると徐々にそんな感覚が薄まり、時には正しいとさえされるようになることもある。辞書を引いても「転じて―」などと、意味が足されたり変わったりしたものがよくある。言語表現にも絶対的・永続的に正しいといえるものはないのかもしれない。
口頭にしろ文章にしろ、その人にとって正しい言葉使いとは、それまで生きてきた中で作られた感覚で、特に親の言葉遣いや小学校ぐらいまでに習った先生の影響なども大きいと思う。地域差もあるかもしれない。他人の表現に違和感を覚えるということは、それまで培った感覚が成熟し、聴き(読み)なじみのない表現を受け入れづらくなること、言い換えれば単に歳をとっただけとも言えそうだが、それでも聞き苦しい、見苦しいと感じてしまう表現があるのは事実である。若い頃の自分をその頃の大人たちは同じように感じていたのだろう。
こう書いていると新しい表現を積極的に受け入れていかなければいけないような気にもなるが、80年代頃には既に指摘され始めた「ら抜き言葉」が、30年近くたった現在でも口語ではある程度許容されることも多くなってはいるが、文章ではいまだに大抵良しとされないことなどを考えると、そうでもないか、とも思う。最終的には言葉に対する美的感覚のようなものだから、正しい・間違いではなく、美しい・醜いで判断すればよいかもしれない。美的感覚は人それぞれ微妙に違うものである。