所謂”横浜市における原発いじめ”の件で、被害者児童が加害者児童たちにおよそ150万円分の遊興費を支払ったことを、市の教育長が第三者委員会の調査に基づいて「いじめとは認められない」としたということが話題になった。感情論だけでこの件を見てしまうことはよくないが、小中学生が1回あたり5-10万円・計150万円を友達のために支払ったということが、お金持ちの子供ならありえるのかもしれないが、この件の背景を考慮してもいじめではないという判断をさせる調査をした人たちが、加害児童らの将来を憂慮した上での判断だったとしても、果たして”第三者”と言えるのだろうか。
第三者委員会というと、最近では昨年の舛添元都知事の政治資金私的利用問題でも話題になった。この時も第三者委員会とされた弁護士が世間一般の感覚と大きくずれた調査結果を報告し批判を浴びている。この件の第三者委員会は舛添氏自身が人選をしている。昨年は他にも三菱自動車の燃費不正問題や東芝の粉飾決算問題などでも第三者委員会による調査が行われていたが、これらでは個人的にはある程度妥当な調査が行われていたように感じた。
第三者とは案件の当事者と直接的な利害関係にない人のことを指す場合に使う言葉だ。第三者委員会はニュートラルな、公平な立場での調査・報告をイメージさせる。意地悪な視点で見れば、事案の火消しを図るのにはそのイメージが利用されやすいとも言える。つまり、多くの第三者委員会は妥当な調査と報告を行っているのだろうが、第三者とは言えない人たちが第三者委員会を名乗り、ある一方の当事者側に偏った調査をして、実質的にはその当事者の意向を代弁しているだけの場合もあると心に留めておく必要がある。これは第三者委員会と同じようなイメージで政府などが自ら招集する”有識者会議”などでも同じことだ。
公平かどうかを判断するのもまた人間であり、厳密に言えば完全な公平など不可能だ。公平感をやたらと主張している場合などは注意が必要で、特に自分の意見とは別の視点からも物事を考えるようにしたい。