先月末、宮城県在住の60代女性が、旧優生保護法の元で強制不妊を受けさせられたことに関する訴訟(時事通信の記事)を起こして以来、この件に関連する報道が多く行われている。特に毎日新聞は連日1面に関連記事を掲載し、国がこれまで示してきた「当時は適法だった」という姿勢に強い疑問を投げかけている。優生保護法は1948年に制定された日本の法律だ。戦前の1940年に指定された国民優生法と同様、優生学的思想に基づいた部分も多く、1996年に、優生学的思想に基づいた条文を削除して、母体保護法に改定されるまでの間存在した。優生学とは「優秀な人間の創造」や「人間の苦しみや健康問題の軽減」などを目的とした思想の一種で、このような目的達成の手段として、障害者の結婚・出産の規制(所謂断種の一種)・遺伝子操作などまで検討するような側面があった。また、優生思想はナチスが人種政策の柱として利用し、障害者やユダヤ人などを劣等として扱い、絶滅政策・虐殺を犯したという経緯があり、人種問題や人権問題への影響が否定できないことから、第二次大戦後は衰退した。ただ、遺伝子研究の発展によって優生学的な発想での研究は一部で行われているようだし、出生前の診断技術の発展によって、先天的異常を理由とした中絶が行われる場合もあり、優生学的な思考が完全にタブー化したとは言い難い。
ナチスが戦前に障害者の人権を無視し、能力的に劣っているとレッテルを貼って大量虐殺したことが、戦争直後から強く批判されたのにも関わらず、戦後の日本でも障害者の人権を無視し、強制的に不妊手術を行っていたというのはかなり驚きだし、しかもそんなことを認める法律がほんの20年前まで存在していた事にも驚く。確かに法律が存在していた当時の強制不妊手術は、厳密には合法だったのかもしれないが、そんな非人道的な行為を受けた被害者救済が必要ないとは思えないし、当時は既に日本国憲法下で基本的人権や法の下の平等が保障されていたのだから、「強制不妊手術は憲法に違反していた」ことは間違いないのではないか。
強制不妊手術は非人道的な行為ということについて、時代背景の影響なども考慮すれば、細かい部分、例えば責任の度合いなどの判断は人によって分かれるだろうが、誰もが大筋では非人道的な行為と考えるだろう。
今日のMXテレビ・サンデークロスでは、奄美大島で野生化した猫が、固有種で特別天然記念物に指定されているアマミノクロウサギなどを襲っており、生態系への影響についての危惧を背景に、捕獲・一定期間の引き取り手募集・見つからない場合は殺処分、という対処が検討されていることを取り上げていた(読売新聞の記事)。番組ではこれについて街頭インタビューも行っており、「猫を飼いきれずに放置した人間の責任で、猫は悪くない」、「(奄美大島の野良猫が1000匹以上に増えていることなどを前提に)増えないように避妊手術をするべき」などの見解が示されていた。野良猫へ避妊手術を施す活動は決して珍しいことではないし、野良猫でなくてもペットの犬や猫に不妊手術を施すことは、とても一般的なことだ。
自分がこの件から感じたことは、「人間の身勝手さ」だ。人間が猫を奄美大島に持ち込み野生化させたのに、生態系が崩れるとして今度は捕まえて殺処分するという身勝手さ。増えないように強制的に不妊手術を施そうという身勝手さ。多くの動物は人間が極力手を加えない野生の状態が、自然で望ましい状態だとしているのに、犬や猫が野生化すると、野良猫・野良犬という害悪のような存在として扱う身勝手さ。
個人的には、人間も動物の一つである以上、他の動物が縄張りを守るのと同じように、例えば、田畑を荒らす猪や鹿・猿などを駆除するのと同様、野良犬や野良猫の不妊手術・殺処分もある意味では仕方のないことだと考える。しかし日本で猪や鹿などが増え過ぎている理由の一つには、それらの天敵だった日本狼の絶滅がある。日本狼の絶滅の原因には、近代以降海外から持ち込まれた海外由来の犬によって狂犬病など伝染病が広がった影響もあるだろうが、人間や家畜を襲う害獣として、人間によって駆除されたことも決して小さくない原因の一つだろう。結局のところ、人間が都合によって自然に及ぼした影響が、回りまわって別の形で人間に跳ね返ってきていると言えそうだ。
自分は、捕鯨を全面的に否定したり、韓国やアジア・アフリカの一部地域に存在する犬食文化などを、欧米で主流な感覚を押し付けて否定しようとするような、動物愛護原理主義的な思想には全然共感出来ない。例えば、マグロ漁やシラスウナギ漁など、絶滅が危惧されている種を絶滅させてしまいそうな勢いで消費しようとしている事への批判・否定ならまだ分かる。しかし捕鯨も犬食文化も現在は確実にそんなレベルの動物消費文化ではない。異なる文化を見下し否定するような行為は到底容認出来ない。
しかし、「増えないように不妊手術を施すのは当然」かのような主張をする人には、優生保護法下の強制不妊手術を肯定しているような印象を、どことなく感じさせられる為、少し不安にさせられる。様々な事情があるだろうからペットや野良犬・野良猫の不妊手術は少なからず必要なことだろう。しかし、障害者への強制不妊手術が非人道的であるのと同様に、好ましい行為でないことは明らかだ。人間だと「あってはならないこと」なのに、ペットや野良犬・野良猫の場合は懸念は全くないというような人が、万が一存在しているなら、自分は人間性を疑う。勿論、今日のサンデークロスの中でペットの不妊手術について言及した街頭インタビューの回答者や、それについてコメントしたコメンテーターも、番組内ではそんなことには触れていなかったが、言わずもがなの大前提と考えているかもしれないので、彼らを名指しして批判するつもりはない。しかし一般的に、ペットの不妊手術について意見を述べる人たちの全てが、そのようなことまで考慮して言及しているとは自分には思えない。可否はともかく、それについての問題性を認識しておく必要性はあるだろう。
「ペットの犬や猫は根本的に野生動物とは異なる存在」のような主張をする人にしばしば出くわす。自分はそのようなタイプの人に「ペットの犬は野生動物として群れることを止め、人間と共に生きることを”自ら”選んだ種」などと言われたことがある。まず、日本に現在野生の犬というものは存在するのかと聞かれたら、多くの人は存在しないと答えるだろう。しかし野良犬・野犬と言われるような、以前は人間に飼われていたが、逃げ出したり捨てられたりして野生化した犬は確実に存在する。自分は山道で何度もそのような野犬に出くわしたことがあるが、元ペットだっただろう犬たちも、野生化すれば群れを作る。街中の野良犬は一匹でフラフラしていることも多いが、山の中で出会う野犬は十中八九群れで行動している。自分は20頭前後の群れに遭遇したこともある。それを考慮すれば人間に飼われている犬も、現在人間と一緒に生活しているだけで、状況が変わればその環境に適応し生存する為に人間に飼われる前の状態に戻るだろう。当然適応出来ずに死んでしまう個体もいるだろうが、そんなのは野生動物の世界では全然珍しいことではないのではない。
要するに、ペット化した犬猫は人間と暮らすことを選んだ野生動物とは異なる種という話は正しいとは言えない。強いて言えば、人間が恣意的に交配を重ねて、一方的にペット化しただけだ。家畜的な存在ならまだしも、確実に家畜より動物愛護的な視点で扱われる場合の方が多いペットに関して、野生動物ではなくペットなのだからという理由で人間が一方的な都合で不妊手術を施しても良いことにはならないのではないだろうか。
ナチスが障害者・ユダヤ人を虐殺したことは、戦争直後から日本でも多くの人が強く否定していたのに、その戦争が終わった後に障害者の人権を無視するような強制不妊手術を認める法律が制定され、実際におよそ50年もの間手術が行われていた事と、野良犬・野良猫の殺処分には強い嫌悪感を示すのに、強制不妊手術には殆ど嫌悪を示さず、場合によっては当然の事かのように語られているような状況は、類似性がとても強いように自分には思える。ペットや野良犬・野良猫に不妊手術を施すことはある程度は仕方ないが、それを自分が飼っているペットに施したり、野良犬・野良猫対策の一環として行われることに賛同する際には、ナチスが優勢思想の下で行った虐殺や、日本の優生保護法下で行われた強制不妊手術のことも思い出して欲しい。
人間が他の動物をコントロールしようとすることを全否定するつもりは全くないが、人間は身勝手な動物で、一方的な都合で他の動物に多大な影響を与えている、ということは、どんな時も頭の片隅に入れておく必要がある。そんなことを忘れて、若しくは度外視して生態系の維持とか動物愛護について語ることは、確実に好ましいとは言えないし、自分は単なる自己満足、厳しく言えば自慰行為に過ぎないと感じる。