スキップしてメイン コンテンツに移動
 

生活保護


 厚生労働省が「なぜ外国人に生活保護を適用するのか、生活に困窮する外国人は母国で保護するべきではないのか」という一般市民からの質問に対して、人道上の観点から行っているという回答をウェブサイトに掲載したことが話題になっている。個人的には「なぜ外国人に生活保護を適用するのか」という質問自体が無意味に感じられる。


 生活保護の不正受給をするような不良外国人がいることも事実だが、そのようなことがあるからと外国人全体に問題があるかのように論じるのは危険なことではないだろうか。それは外国人差別につながるおそれがある。外国人と一言で言っても千差万別、様々な人々がいる。出身国内部の状況も違えば、日本での振る舞い方もそれぞれ違う。外国人であっても、それまできちんと日本で納税を行っていた人は生活保護を受ける権利が個人的にはあると思うし、もしそうでなかったとしても、国民をサポートする力が充分でない国が母国の人であれば保護するべきなのではないだろうか。個人個人の状況も考慮せず日本国籍がないなら全て保護する必要はないとするほど日本人は冷たい国民性だとは考えたくない。

 世の中には、特にネット上の一部の人を中心に生活保護に対してある種過剰な厳密性を求めるような風潮がある。確かに悪意に満ちた計画的な不正受給は公平性の観点から許すべきではない。しかし生活保護が必要な人々は社会的弱者であり立場が弱い人でもある。不正受給を疑う前提でそのような人々に接すれば、その立場の弱さから保護を受けることに対して萎縮してしまい、結果として保護が必要な人に救いの手が届きづらくなってしまうのではないのだろうか。そういう意味で、小田原市職員の所謂、過激な文言の入った不正受給撲滅ジャンパーの件も行き過ぎた行為として非難される対象になったのだろう。公平公正を求めるという姿勢を隠れ蓑にした弱者差別、言い換えれば”いじめ”が一部で行われているような気がしてならない。

このブログの人気の投稿

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになる

 攻殻機動隊、特に押井 守監督の映画2本が好きで、これまでにも何度かこのブログでは台詞などを引用したり紹介したりしている( 攻殻機動隊 - 独見と偏談 )。今日触れるのはトップ画像の通り、「 戦闘単位としてどんなに優秀でも同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになるわ。組織も人も特殊化の果てにあるものは緩やかな死 」という台詞だ。

フランス人権宣言から230年、未だに続く搾取

 これは「 Karikatur Das Verhältnis Arbeiter Unternehmer 」、1896年ドイツの、 資本家が労働者を搾取する様子を描いた風刺画 である。労働者から搾り取った金を貯める容器には、Sammel becken des Kapitalismus / 資本主義の収集用盆 と書かれている。1700年代後半に英国で産業革命が起こり、それ以降労働者は低賃金/長時間労働を強いられることになる。1890年代は8時間労働制を求める動きが欧米で活発だった頃だ。因みに日本で初めて8時間労働制が導入されたのは1919年のことである( 八時間労働制 - Wikipedia )。

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

馬鹿に鋏は持たせるな

 日本語には「馬鹿と鋏は使いよう」という慣用表現がある。 その意味は、  切れない鋏でも、使い方によっては切れるように、愚かな者でも、仕事の与え方によっては役に立つ( コトバンク/大辞林 ) で、言い換えれば、能力のある人は、一見利用価値がないと切り捨てた方が良さそうなものや人でも上手く使いこなす、のようなニュアンスだ。「馬鹿と鋏は使いよう」ほど流通している表現ではないが、似たような慣用表現に「 馬鹿に鋏は持たせるな 」がある。これは「気違いに刃物」( コトバンク/大辞林 :非常に危険なことのたとえ)と同義なのだが、昨今「気違い」は差別表現に当たると指摘されることが多く、それを避ける為に「馬鹿と鋏は使いよう」をもじって使われ始めたのではないか?、と個人的に想像している。あくまで個人的な推測であって、その発祥等の詳細は分からない。