厚生労働省が「なぜ外国人に生活保護を適用するのか、生活に困窮する外国人は母国で保護するべきではないのか」という一般市民からの質問に対して、人道上の観点から行っているという回答をウェブサイトに掲載したことが話題になっている。個人的には「なぜ外国人に生活保護を適用するのか」という質問自体が無意味に感じられる。
生活保護の不正受給をするような不良外国人がいることも事実だが、そのようなことがあるからと外国人全体に問題があるかのように論じるのは危険なことではないだろうか。それは外国人差別につながるおそれがある。外国人と一言で言っても千差万別、様々な人々がいる。出身国内部の状況も違えば、日本での振る舞い方もそれぞれ違う。外国人であっても、それまできちんと日本で納税を行っていた人は生活保護を受ける権利が個人的にはあると思うし、もしそうでなかったとしても、国民をサポートする力が充分でない国が母国の人であれば保護するべきなのではないだろうか。個人個人の状況も考慮せず日本国籍がないなら全て保護する必要はないとするほど日本人は冷たい国民性だとは考えたくない。
世の中には、特にネット上の一部の人を中心に生活保護に対してある種過剰な厳密性を求めるような風潮がある。確かに悪意に満ちた計画的な不正受給は公平性の観点から許すべきではない。しかし生活保護が必要な人々は社会的弱者であり立場が弱い人でもある。不正受給を疑う前提でそのような人々に接すれば、その立場の弱さから保護を受けることに対して萎縮してしまい、結果として保護が必要な人に救いの手が届きづらくなってしまうのではないのだろうか。そういう意味で、小田原市職員の所謂、過激な文言の入った不正受給撲滅ジャンパーの件も行き過ぎた行為として非難される対象になったのだろう。公平公正を求めるという姿勢を隠れ蓑にした弱者差別、言い換えれば”いじめ”が一部で行われているような気がしてならない。