日本音楽著作権協会・JASRACが、音楽教室での先生・生徒の演奏も”公衆の面前”での演奏と見なし、2018年から作曲家などが持つ演奏権に関する著作権料を徴収する方針であることを発表し、多方面から批判の声が上がっている。批判のほとんどが「著作権料がレッスン料に転嫁され、音楽を学ぼうとする人が減り、文化発展を阻害する恐れの方が大きい」という趣旨だ。だいたい教室内での演奏を”公衆の面前”での演奏というのに無理がある。著作権法においては”公衆”に”特定の多数”を含むと言うことらしいが、まず一般的に公衆と言えば、不特定多数を想像するし、百歩譲って”特定”も認めたとしても教室に集まる先生・生徒を”多数”と言うのにはかなり無理がある。それが認められるなら、例えば教室に行く前に自宅において親兄弟の前でピアノを練習することだって、音楽教室と関連する一連の行為なのだから、親兄弟が聞いている状態でのピアノ練習を”公衆の面前での演奏”として、演奏権を主張し著作権料を徴収することができると思う。そんなことになったら誰が音楽を学ぼうと思うだろうか。日本の音楽業界はCD売り上げが下がり始めた2000年頃に著作権保護強化に乗り出し、違法コピー防止という大義名分の元、コピーコントロールCDなるものを導入したが、違法コピーしない消費者の利便性も犠牲にした結果、消費者の反感を受けることになりCD離れ・音楽離れを加速させてしまった過去を、どう受け止めているのだろうか。
著作権とは、文章、音楽、絵画、映像、立体物などの思想・感情を創作的に表現した著作物を排他的に支配する、財産的な権利。まず著作権が何のために設けられているかということを考えたい。著作権法が制定された背景には「著作者の利益の保護」がある。しかし著作権法の第1条では「文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的」としており、”利益の保護”が必要な理由が”文化の発展”の為であると解釈できる。要するに”利益を追及しすぎて、文化の発展が疎かになっては本末転倒”だということだ。このことから考えると、上記の件で音楽教室大手のヤマハが言っているように、既に教材の楽譜やCD等でも著作権料を収めているにも関わらず、さらに今まで徴収していなかった演奏権に関しても徴収することが”文化発展の阻害”にあたると考えるのは妥当な気がする。この件での音楽教室はどうやら子供向けがほとんどのようで、大人向けの社交ダンス教室、フィットネスクラブ、カルチャーセンターでは既に演奏権に関しても徴収が行われているようだ。大人に対しては文化発展の阻害にあたらないという考え方も、それはそれでおかしいが、これから音楽家になりたいという夢を持つかもしれない子供が音楽に興味を持つ機会を奪いかねない今回のJASRACの発表は、大人に対してよりもさらに文化発展を阻害する恐れが強いと言えるかもしれない。文化発展を守るための著作権により文化発展が阻害されかねない矛盾した状況は、著作権法の不備と考えることもできるが、著作権者の利益ではなく、JASRACやレコード会社、音楽出版社が利益を少しでも多く確保するために、著作権者の権利を守るということを建前にして、著作権をある意味悪用しているようにも見えてしまう。
昨年9月ごろから話題になっているPPAP・ピコ太郎とは無関係の個人が、PPAPやペンパイナッポーアッポーペンについて商標出願していることが、先月報道されていた。この件で出願した男性と彼が代表を務める会社は、他にも彼らとは明らかに無関係な商標出願を多数しており、彼はインタビューに対して「正当に取得した商標の使用料を請求する、正当なビジネス」と言い放っていたが、どう見ても正当なビジネスでなさそうなのは言うまでもなく、登録した商標を使用した物販・サービス等をするわけでもないので便乗ビジネスとすら言えない、ただの”たかり屋”にしか見えなかった。この件も、適正に商売をするために設けられた商標登録制度を悪用し、不当に利益を上げようとする行為で、冒頭の演奏権問題とは少し違うが、権利の目的外で行使する・権利の濫用という意味では本質的には同じなのかもしれない。