昨年9月に開示請求があった南スーダン・首都ジュバでの武力衝突の状況を記録した2016年7月7日から12日までのPKO活動日報は、防衛省は既に廃棄したため開示できないとしていたが、一転して電子データが見つかったとして保管を認め公表した。この件について問題点は2つ思いつく。まずこの種の日報がいつ廃棄されても法的に問題がない点。そして一度は”ない”としたものを追求されたことにより”実はあった”とした点だ。
この件の前提として、自衛隊PKO部隊が現在も南スーダンに派遣され続けている状況は法的に問題がないのか、ということがある。昨年7月に南スーダンで起こった大規模な武力衝突を”戦闘”であるとするならば、PKO5原則で内戦・紛争が起きている、いわば戦争状態の地域への派遣が認められていない自衛隊は撤退しなければならないのではないか、という見解がある。これに対して政府・与党は戦闘ではなかったという見解を示し、PKO部隊の派遣には問題がないという姿勢だ。ただの散発的な衝突なのか戦争・内戦状態なのかに明確な線引きがあるわけではなく、グラデーションの状況から判断しなくてはならないことは分かるが、反政府勢力と政府軍とされる大統領派が銃撃戦を行い、国連南スーダン派遣団の施設も攻撃を受け、中国軍兵士2名が死亡、全体では270人もの死者が出る事態を、衝突であって戦闘ではないと首相・防衛大臣は言い切っている。安倍首相は270人もの死者が出た現地情勢について「永田町よりは危険」などと緊迫感が全く感じられない発言もしている。稲田防衛相は「戦闘行為とは、国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷しまたは物を破壊する行為」としており、この発言からからは国家間の紛争ではない内戦状態ならば自衛隊PKO派遣は可能であると考えていると思える。ならば現在のシリアは反政府勢力とアサド政権軍の争いで国際的な武力紛争ではないし、ISILが国と宣言してはいるが、日本は国と承認していないから反政府勢力の1つと捉えることで、自衛隊のPKO派遣ができることになると思うのだが、それについて国民は確実に納得しないだろう。
話を遡ると、2015年に集団的自衛権を憲法解釈の変更だけで容認してしまった安全保障関連法案を可決したことが、さらにこの問題の前提にある。この法案により、今後自衛隊が所謂駆け付け警護を行うことを可能としたが、その任務が認められる最初のケースが南スーダンのPKO部隊であり、政府はその方針を昨年11月に閣議決定している。
このような流れを考慮すると、政府は集団的自衛権を容認したことで、その権利行使の前例作りを急いでいるように見える。その為に南スーダンのPKO部隊を撤退させたくないのだろう。だから7月の南スーダンの事件を”戦闘”ではなく”衝突”と表現する言葉遊びをしているように思う。公表されると政府にとって不都合な、現地PKO部隊が”戦闘”と表現して情勢を危惧した日報を、防衛省は廃棄したとしていたが、追求されて再探索した結果、一転して見つかるという不自然な状況が冒頭の件である。これでは現地情勢を戦闘ではないとした政府の都合で隠蔽しようとしていたと思われても仕方がない。強引な憲法解釈変更、戦闘か否かの言葉遊び、さらにその証拠隠し。最初の無理が祟った恥の上塗りで、だんだんと嘘のレベルが低くなっているように思える。防衛省の報道官は日報の保管を認め公表した会見で、日報の”戦闘”について「一般的な意味で用いた。政府として法的な意味の戦闘が行われたとは認識していない」とかなり苦しい説明をしていた。これについても昨年10月に稲田防衛相は「我々は一般的な意味として衝突、いわば勢力と勢力がぶつかったという表現を使っている」と発言しており、一般的とか法的とかの説明には全く説得力がない。これでは、これからは政府の発表は全ての言葉について「一般的な意味ですか?法的な意味ですか?そもそも一般的・法的とはどういった意味ですか?」などと確認する必要がありますよとか、我々の発言・発表は曖昧な表現を使い、都合に応じて後から何とでも言い換えられるようにしていますと自ら認めるようなものだ。
”ない”とされていた文書が”実はあった”なんてのは政治や役所の対応では往々にしてあることで、それも国民の信頼を大きく損なうことだが今回は置いておくとして、政府が270人もの死者が出た状況を”戦闘”ではなく”衝突”であると説明するという、小学生でさえ首を傾げそうな言葉遊びをしているのは、国民を騙しているとさえ自分には思える。安部政権・与党は過去にも”武器”を”防衛装備”、輸出を”移転”などと言い換え、それまで武器輸出を禁じていた武器輸出三原則を覆し、新たに防衛装備移転三原則として武器輸出を容認しているし、過去に3度も廃案になっている”共謀罪”を”テロ等準備罪”として現国会へ法案提出しようとしてる。テロ等準備罪に関しては、批判を浴びて適応範囲を限定的にする方向へ動いているが、テロ等準備罪と言い換えた当初は廃案になった共謀罪とほとんど変わらない内容だった。看板さえ架け替えれば国民は騙せるとでも思っているんじゃないだろうか。
過去にもこのような政治上での言葉遊び・言い換えはあった。消費税に関しても2件あり、79年より導入を目指していたが、多くの反対があり長年実現できていなかった消費税を、87年に中曽根政権が”売上税”と言い換え法案提出したが賛同を得られず廃案になっている。翌88年には当初から5%で検討していた税率を竹下政権が3%に設定し強行採決までしてなんとか導入することになったが、その税率を7%にしようと、94年に細川政権が消費税を廃止し、7%の”国民福祉税”を導入しようとしたが、反発を受けて失敗している。
当時の国民を見習い、現在の日本国民も政治家の言葉遊びに惑わされないようにしなくてはならない。国際情勢を勘案した日本の安全保障を検討しなくてはならないのも事実だが、安部政権は戦後日本が貫いてきた”戦争の放棄”に関わる分野での言い換えをしている為、特に注意が必要だ。彼が自分の理念に自信をもっているなら、もっと真摯な態度で国民と向き合ってもらいたい。集団的自衛権を容認したいならば、まず憲法9条改正をするべきだったのに、憲法9条改正に国民の賛同が得られないと分かっていながら、憲法9条とは矛盾する政策を強引に推し進め、その辻褄を合わせるために憲法改正を叫ぶのは順序を間違えているように見えて滑稽にすら感じられる。例えば万引きして店を出た子供を捕まえたら「万引きするつもりじゃない、今からお金払うつもりだった」と言い訳したり、「今からお金払うからいいでしょ」と開き直ったら、多くの大人は万引きした事実以上にそれらの発言をしてしまう姿勢に対して怒るんじゃないだろうか。