アダルト動画配信サイト・カリビアンコムの社員がわいせつ電磁記録等送信頒布の疑いで逮捕されたことを多くのメディアが報じている。逮捕されたのは34歳のアメリカ国籍の男性で、旅行で沖縄を訪れたところを逮捕されたらしい。カリビアンコムはカリフォルニア州の企業が運営しているサイトで、今回逮捕されたのはアメリカ人。サイトは日本語でも作られており、配信している動画の出演者もほとんどが日本人であることなどから、活動の実態が日本にあるから警視庁が動いたということなのかと想像しているが、果たして警視庁が、建前といえどアメリカで活動しているサイトを、日本の法規で判断し警察権を行使することに問題はないのか。報道されている内容から判断すれば、個人的には、不勉強だけなのかもしれないが、やや疑問である。様々な事象がギャンブルの対象になり、それが違法ではないイギリスなどでは、ブックメーカーと呼ばれる合法的なノミ屋が存在する。ネット上にもクレジットカードやWebマネーなどを使ったそれらのサイトが複数あり、それらの中には日本語対応を行っているサイトもある。カリビアンコムのアメリカ人社員を逮捕したということは、それらの賭けサイトの社員も来日したら逮捕するということなのだろうか。自国の法規に違反せずにサイトを運営していても、日本に来ればそのことで罪に問われるなんて、自分に置き換えて考えるとかなり違和感がある。
それとは別に一体”わいせつ”とはなんなのか、”わいせつ表現”に関する規制は何のために存在するのかも考えてみたい。日本では局部を写した写真や映像、描いた絵などを娯楽などの目的で頒布することは罪に問われる恐れがあるということは、日本人なら誰でも知っている。何のためにこの規制があるのかと問えば、”公序良俗”に反するためと答える人が多いと思う。確かにその考え方には一定の整合性があると思うし、アダルト専門店ではなく、一般の書店やレンタルビデオ店など未成年も出入りする場所でも、成人向け雑誌やビデオなどの販売等が行われていた(行われている)という日本の社会状況を考えれば、必要な規制だったと言えたかもしれない。しかしインターネット上ではアダルトコンテンツの頒布は専門サイトで行われることがほとんどだ。そして海外のサイトには日本の法規は及ばないが、それを日本から閲覧することは可能だし閲覧自体を規制するのはほぼ無理だろう。そんな状況なのにイスラム教国などのような宗教上の明確な判断基準などがあるわけでもないのに、インターネット以前の価値観を基準に、ボカシのないアダルトコンテンツは”わいせつ”であるとすることは本当に意義があることと言えるだろうか。
日本では、所謂ボカシのないアダルトコンテンツは、”公序良俗”に反する”わいせつ”なものだとされてきた。逆に言えば”公序良俗”に反さなければ”わいせつ”ではなく、規制する必要もないのではないかと個人的に考える。インターネットの普及でボカシのないアダルトコンテンツに、それまでとは比較にならないほど簡単に触れられるようになったが、それらが日本の社会において”公序良俗”に反するものならば、インターネット以前と以後で劇的に性犯罪が増えているのだろうか。インターネット以後、草食系が増えるなどその逆と思えるような話は聞くが、性犯罪の増加などと言う話はあまり聞かない。厳密に調べたわけではないがボカシのないアダルトコンテンツが公序良俗を阻害することはないと感じる。少子化問題などを考えたら、むしろもう少し若者に性へ関心を持ってもらう方向に社会を変えたほうがいいような気すらする。今回の警視庁の動きなどは、結局機械的に規制のための規制を行っているように思える。
インターネットの普及で未成年がアダルトコンテンツに触れる機会が増えたのだから、より規制を強める必要があるだろうという声も聞こえてきそうだが、前述のようにネット上では多くのアダルトコンテンツが、有料無料問わずアダルト専門サイトで頒布されているので、アダルトコンテンツの表現に対する規制を強めるよりも、フィルタリングを徹底し未成年をそれらのサイトに近づけないという対策のほうがよっぽど有効だろう。ネット以外の雑誌やDVDなどとの整合性を保つ必要もあるだろうから、いきなり全て局部の描写解禁とはいかないだろうが、逆に規制を強めることにはメリットが感じられない。規制を強化することは、業者がアンダーグラウンド化し、反社会的な勢力がそこに入り込む土壌を作ってその資金源になったり、昨今話題になっている出演強要などの犯罪行為を余計に生み出す恐れを強めるのがオチだ。
TBSの番組・クレイジージャーニーで、世界各地の少数民族を撮影する写真家の女性を紹介する回があった。その女性は彼・彼女らと同じ格好をすることで相手に親近感を与え、撮影を円滑に進めるという手法が特徴的で、彼女が少数民族と同じ格好になり彼女の乳首が映るシーンがある。彼女の乳首には当然のようにボカシがかかっているのだが、その時一緒に映っている少数民族、それ以外に目的地への道中で出会った少数民族などが乳首を出していてもそこにはボカシがないのが印象的だった。所謂前述の法規制上の”わいせつ”とは別の意味だが、番組では日本人写真家の乳首はわいせつで、少数民族の乳首はわいせつではないと判断したことはかなり興味深い。いつも隠している乳首を出すことはわいせつで、いつも出している乳首はわいせつではないということなのだろうか。しかし少数民族の人々も常に裸で生活している訳ではなく、中には普段は服を着て生活している人が番組内でも見られた。番組のこのような姿勢は、少数民族の伝統を極力そのまま伝えたいという考えと、視聴者からのクレームを最小限にしたいという考えの間の苦肉の策のようにも思えるし、写真家の女性が少数民族とほとんど同じ格好をしていることを思えば、短絡的に考えれば少数民族に対する差別意識の現われのようにも思える。こんなことは”わいせつ”なものを表現してはいけないということについて、ある種過敏ともいえる風潮があるから起こるのではないのではないだろうか。
自分の結論としては、ボカシのないアダルトコンテンツが公序良俗に反するなんて話はナンセンスだし、表現がわいせつかどうかなんてことは人によって感覚に差があることだ。今まで所謂無修正に触れてこなかったからか、自分は局部をボカシなしでクローズアップするようなアダルトビデオはあまり美しいと思えないので好みではない。一番美しいと思うのはボカシがなく局部が映っていたとしても、不自然にアップにするなどの露骨な演出がない映像だと思う。ボカシも映像的には美しいとはいえないが、丸見えよりはマシだ。そして、ちらリズム的な感覚と言うのか、丸見えよりもむしろ見えそうで見えないほうがエロく見えるとも思う。そうやって考えていたら、自分にとってはボカシなしの動画よりも所謂普通のアダルトビデオのほうがよっぽど”わいせつ”なもののように感じられてきた。ボカシなしは自分の好みではないが、それは他人に押し付けられる感覚ではなく、規制を強める、ましてや建前でも国外に活動拠点があるとする企業を断罪する必要は全く感じられない。アダルトビデオへの出演強要などの問題はこの話とは全く別の問題であり、それを理由にこの件を容認することは自分には出来ない。