韓国の一部には夏バテ防止のスタミナ食などとして「補身湯」などと呼ばれる犬肉食の文化がある。これについて平昌オリンピックを目前に控え、ソウルオリンピックや日韓共同開催だったサッカーワールドカップの時と同様に、韓国内外の動物愛護団体の抗議が強まっているとハフィントンポストが伝えている。犬肉食文化は韓国特有の文化という訳ではなく、中国やベトナムなどのアジアなど各地で見られる文化だ。個人的には自分が犬を食べてみたいと思うわけではないが、犬肉食文化を他国・他文化から否定することは好ましくないと考える。特定の犬種を絶滅に追い込むような行為があるのならば話はまた別だが、そもそも「犬を食べるのは野蛮」というのは、欧米、特にヨーロッパ的な価値観の元に語られている話だと思う。彼らは牛や豚を食べるが、牛を神の使いとして食べないヒンドゥー教徒から「牛を食べるのは野蛮」と言われたら、牛を家畜として扱ったり食べることをやめるのか。豚を不浄であるとして食べないイスラム教徒から「豚を食べるのは野蛮」と言われたら豚を家畜として扱ったり食べることをやめるのか。そんな話がどれほどナンセンスかを考えてもらいたい。
日本の捕鯨やイルカ漁に対する批判も犬肉食批判と同種だと思う。鯨やイルカを絶滅に追い込むほどの漁を日本が行っているのだとしたら、批判されても仕方がない。しかし自然界からある程度の恵みを受け取ることの何がいけないのか。動物愛護という観点から動物性たんぱく質を摂取しない事を選びベジタリアンとなった人が、動物を殺して食べるということを批判することがある。個人的には全く理解が出来ない。なぜなら、どうして動物を殺して食べるのは駄目で、植物を食べることは大丈夫なのかが疑問だからだ。命を奪うということがいけないのなら、植物だって生物だ。食べるということは植物の命を奪うことに他ならない。そんなことを言い出したら何も食べられなくなる。
自然界に草食動物しかおらず、人間以外に動物を食べる動物がいないのならば動物を殺して食べることを否定する感覚が生まれるのもまだ分かる。しかし実際にはそんなことはなく、動物を食べるかどうか、食べるならどの動物を食べるか、なんてことは主義思想の範疇の話で、絶対的に良いことでも悪いことでもない。動物愛護の観点で、韓国の犬肉食文化、日本の捕鯨などに抗議をするというなら、それよりもまず、もっと多くの牛・豚・鶏が人間が育てたとはいえ殺されて食べられていることに抗議するべきだと思う。結局犬肉食文化や捕鯨に関する抗議は、大きな意味では自分が好きな動物だけを優遇するような感情論でしかないと感じる。犬もイルカも牛も豚も鶏も植物も人間に育てられていようがいまいが命の重さ自体には差があるはずがない。