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呼び名より重要なこと


 文部科学省は学習指導要領の改定案で聖徳太子や鎖国などの表記を変更する方針を示していたが、教員などから「教えづらい」「わかりにくい」といった声が上がり、これを受けて文科省は改定案の方針を変えて元に戻すなどの対応をする予定とのことだ。歴史に限らずどの学科でもそれまで正しいとされていたことが、新しい研究で覆ったり、社会情勢の変化などの影響で認識が変わったりすることで、そうではなくなることはしばしばある。今回話題になっている”聖徳太子”や”鎖国”についても歴史研究の現場の声を反映し、当時の状況をできるだけ的確に表現する為の変更の提案だったようだが、個人的には現在は今のままでもいいのかなと思う。


 聖徳太子は該当人物が死んだ後につけられた呼び名で、生前は厩戸王と呼ばれていたという研究や、江戸時代の鎖国について、鎖国とは他国との関係を断ち切ることを指す用語だが、実際は朝鮮・中国・オランダなどと外交・交易関係があったので厳密には鎖国ではないという話を基に今回の変更が提案されていたのだが、どちらも呼び方は現在のままで、まず上記のような研究や事情を授業で取り上げることを促すだけで良いと思う。これを続ければ社会一般にその認識が徐々に浸透し、当時の実態に即した呼び方に合わせることへの拒否反応はなくなると思う。実際に文科省もそのように方針を変更するようだ。

 歴史の教育や学習で、用語を覚えることも大事ではあるが、用語を覚えるだけでは充分とは言えず、当時の状況や出来事、それらの相互関係性を把握することのほうがもっと重要だと思う。文科省もそれを促すために呼び方の変更を提案したのだと思うが、批判を受けて呼び方に固執するのではなく前述のように方針を変えたことはある意味で、”柔軟な対応”と言えるかもしれない。ただ文科省が今回の対応に至った経緯が柔軟な対応と言えるような前向きだったのか、批判を受けて渋々・嫌々変更を余儀なくされたというような後ろ向きな対応だったのかは定かではない。国会の議論では「歴史に対する冒涜だ」などと見当違いな発言をした議員もいたようだが、そんなクレーマーのような意見には惑わされず、ただ妥当な現場からの批判や市民の声には真摯に向き合い、今後も教育・学習の本質を考慮した施策を行ってもらいたい。

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