鈴木大地スポーツ庁長官の東京新聞のインタビューに対するコメントが一部で批判を浴びていると、ハフィントンポストが報じている。水泳の授業などで行ったプールへの飛び込みで事故が起きていることを受けて、授業でのプールへの飛び込みを原則禁止する動きがあることに対して、鈴木長官は「水深1mのプールでも飛び込みの練習はできる」「なんでもかんでも危険だからと全面禁止し、もやしっ子を育てあげていくのはどうかなと思う」などの見解を示した。記事では主に長官の「もやしっ子」という言葉に反応した批判的なツイートを紹介しているが、ハフィントンポストの記事はどちらの意見を肯定するでもなく両者にそれぞれ言い分があるというニュアンスで書かれている。
個人的にはやや配慮に欠けたコメントをした鈴木長官と、「もやしっ子」という表現に必要以上に反応した揚げ足取りとも見えてしまう批判の不毛な対立という気がする。といっても鈴木長官はこれらの批判に対して、今のところ対立的なコメントをしている訳ではなく、そう考えると記事で取り上げられたツイートの方が、どちらかといえば少し大人気ないようにも感じる。自分は小学校4年生ぐらいから水泳で飛び込みを行っていたし、自分が通っていた小学校・中学校・高校のプールは水深は大体1.5mくらいだったし、少なくとも自分の周りではそれに関する重大な事故が起きたと聞いたことがない。つまり、学校での水泳・飛び込みによる事故の原因多くは、悪ふざけで飛び込みを行った生徒や、「やれば出来る」という悪い意味での体育会的な考えを持った教師が、水泳技術が未熟な生徒に対して無理な飛び込みをさせることにあるのではないかと推測する。この認識が大きくずれていないのであれば飛び込みを、少し前に話題になったあからさまに無理な規模に巨大化した組体操などと同列であるかのように原則禁止なんて方針は、長官の言うように「なんでもかんでも危険だから禁止」とも感じられる。
今回の件で発言をした鈴木長官が、オリンピックで金メダルと獲得したアスリートであることなどから、体育授業にネガティブイメージを持つこと自体を批判する気は全くないが、運動が得意ではなく学校体育にネガティブなイメージを持っているような人々からすれば、長官は自分の運動能力を基準に無理強いをするような体育教師的に見えたのかもしれない。そんなイメージの長官の発言だったので、彼のコメントは”飛び込み出来ない=体育が出来ない=もやしっ子”とか”体育が出来る=エライ、出来ない=ダメ”などと言っているかのように聞こえてしまったのかなとも思う。そんな意味では、個人的には発言内容に問題があるとは到底思えないが、長官は誤解を生まない為にも、もう少し表現に配慮をしても良かったのかもしれない。
そんな感情論的な話を抜きに考えれば、過剰に「やればできる」と”獅子は我が子を千尋の谷に落とす”のような発想で、妥当とは考え難い指導を強要するような教師は全く論外だが、飛び込みは事故が起こる恐れがあるから原則禁止とするのではなく、悪ふざけをしたり、しっかりとした技術を身につけなければ大きな事故に繋がることを教え、その上で水泳の授業を行うことの方がよっぽど重要だと思う。学校の授業で禁止しても、オリンピック中継などで飛び込みは当然に行われる。その映像などを見て、友達と遊びに行くプールなど大人の目の届かないところで真似をする子供は必ずいるだろう。授業での飛び込みを禁止し正しい飛び込みを教えないことは、そんな子供たちが事故にあう恐れを大きくする側面があるかもしれないということを、全面禁止を支持する人たち、今回長官のコメントを批判している人たちはどう考えるのだろうか。水泳の飛び込みを危険だから禁止するのであれば、柔道も受身を取り損なえば同じような危険があるし、雪の多い地域で行われるスキーなどの授業だって場合によってはそれなりの危険がある。そういうもの全てを禁止禁止と子供から遠ざけていくことは本当に適当だろうか。子供から危険を遠ざけるのでなく、子供に危険性を”教える”のが”教育”なのではないだろうか。