ハフィントンポストで黒岩揺光氏のブログ記事「森友学園の実態にショックを受ける前に私たちが考えなければならないこと」を紹介している。学園の幼稚園で「安倍首相頑張れ」と園児が言わされていた件について、その場にいた保護者・学校関係者などが誰一人として「おかしい」と思わなかったのかという事と、入学式などで行われる校長・理事長・議員などの来賓たちが行う所謂”つまらない話”を生徒・保護者が聞かされるが、それについても誰も異論を唱えないことの共通性を考察している記事だ。自分にはそれぞれの件は似ているようで微妙に異質なように感じられ、納得させられたかと言えばそうでもないのだが、しかし確かに入学式などで行われる年長者の”つまらない話”が必要かという疑問には同意出来ると感じた。記事に「つまらない事を我慢するのも教育の一環」というコメントがつけられていた。この主張もある意味では間違っていない、むしろそういう要素も必要なのかもしれないと感じたが、よくよく考えると”自分の望まないことを我慢する”ことは必要かもしれないが、年長者の”つまらない話”がその我慢の対象としてふさわしいとは思えない。
少し前にツイッター上で”「みんなと外で遊ばなきゃ」と言われる辛さを描いたマンガ”が話題になっていた。小学生の頃、休み時間に教室で一人で本を読んでいると、先生に外でみんなで遊んできなさいと言われるが、結局うまく溶け込めなかった」ということを描いたものだ。漫画では先生がみんなで外で遊ぶことを強制するかのように描かれている。この件に関して「体を動かすのが好きじゃない子や、みんなと遊ぶより一人でいたい子もいる」という意見や、「先生は仲間外れにされていると思ったのだろうが、実際はそういう子は望んで一人でいるのでは」という意見が述べれられていた。自分はマンガで描かれているように先生が威圧的に強制したならある意味では良くないことかもしれないが、学校が社会性を学ぶ場でもあり、体を動かし健全な肉体を育てる場所でもあるならば先生の忠告は妥当とも思える。もちろん忠告の方法については検討の余地もある。だが休み時間にいつも一人で教室にいるタイプの子は、おそらく体育も苦手である場合が多いだろう。ならば過度に強制するべきとは言えないが、外でみんなで遊んでこいと忠告することは、その子の社会性・コミュニケーション力や運動性を育むという意味では必要だったと言える。やりたくないことでも我慢してやってみる、これこそ必要な我慢ではないだろうか。
前者の”年長者のつまらない話”も実際は我慢して聞けばそれなりにいい事を言っているのかも知れない。何人かに一人は有難いことを話すが話し下手なだけということもあるだろう。だが実際はつまらない話は聞いてもらえていない。生徒も保護者も我慢して聞いているのではなく聞き流している。だからいくら時間を使って話そうが”つまらない話”という時点で意味をなしていない。むしろ学校のトップである校長・理事長、来賓で呼ばれるような議員など経験・能力のある年長者ならば、生徒や保護者の興味を惹くような話ぐらい簡単に出来るのではないだろうか。能力があるから所謂”偉い”立場なのであって、”偉い”立場だからつまらない話を聴衆に我慢させて聞かせられるのではない。生徒だけがつまらないと感じているならまだしも、黒岩氏の記事にあるように保護者までつまらないと感じているような話を我慢して聞くことが必要だとは自分には思えない。
日本人の美徳感覚の一つ”我慢することは素晴らしい”という意識は、自己中心的にならずに他人を尊重するという日本人らしさの根源であり、ある意味では必要な感覚だ。ただそれに傾倒しすぎると、なくならないサービス残業・過労死などの悪い結果を招く恐れもあることを理解しなければならない。