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日米交流事業中止の理由


 4/11にテレビ神奈川が、4/19に米海軍横須賀基地で行われる予定だった日米地域交流行事がアメリカ側の都合で中止されたことについて「日米交流事業が中止 北朝鮮への軍事圧力影響か」という見出しで報じた。これに対し、在日米海軍司令部が翌12日に中止の理由はペンス米副大統領が横須賀基地に停泊している空母・ロナルドレーガンの訪問に対応する為で、テレビ神奈川の見出しにある「北朝鮮への軍事圧力の影響」ではないとし、米海軍への取材も行われていない無責任な報道だという見解を示している。個人的には米海軍がセンシティブになり過ぎているように見える。


 米海軍の言うとおり、実際の行事中止の主な理由は副大統領の訪問なのかもしれない。しかし日本だけでなく各国のメディアの多くが、米軍が独自に北朝鮮への攻撃を行う可能性が強まっていると伝えているし、北朝鮮当局も強硬な姿勢を崩さず朝鮮半島の緊張状態が高まっていることも事実である。実際米軍は韓国国内で駐韓米軍兵士の家族の避難訓練まで行っている。しかも米大統領は半ば勇み足的にシリアへのミサイル攻撃も行っている。今までの米大統領ならどう動くかがある程度予測できたが、今の大統領は自他共に認める直感型で次に何をしでかすかわからないような人だ。ならば何時何があってもいいように備える為に交流行事は中止しようというのが、アメリカ側の都合だと予測したテレビ神奈川の見出しが、事実に明らかに反し不適切な見出しだとまで言えるだろうか。

 米軍にしてみれば、緊張状態に伴う行事の中止だと思われることは、横須賀だけでなく沖縄など他地域の米軍駐留反対派へ批判材料を与えることになると感じたのかも知れない。確かにそういう側面もあることは事実だ。ただ個人的にはテレビ神奈川のこの見出しに不快感を示すことも、現在の東アジア情勢を考えれば、それ自体も同じように批判対象になる恐れがあると思う。まるで沼にはまらないように注意しているのに、結局はまりやすい場所に一歩を踏み出したような感じだ。何はともあれ、米軍がセンシティブに反応したことからも逆に東アジア情勢が、行事の中止と全く無関係ではないんだなという印象を感じざるを得ない。

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