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政治不信は無くなるのか


 山本地方創生大臣の「一番のがんは文化学芸員と言われる人たちだ。観光マインドが全くない。一掃しなければ駄目だ」という滋賀県で行われたセミナーでの発言に批判が集中し、翌日に謝罪・発言を撤回することになったと多くのメディアが報じている。釈明会見によれば大臣は、史跡などの学術研究も大事だが地方創生を考えれば観光活用も必要だと言いたかったようだが、その為に”学芸員を一掃”なんて発想が出てくることは、言い過ぎかもしれないが、”ドイツの為にはユダヤ人の一掃が必要だ”と同じではないのかとさえ思えてしまう。自分の支持者へ向けて過激な発言で場を盛り上げようとしただけなのかもしれないが、それにしたって質の悪いネットニュースの見出しのようなレベルで余りにも冗談のセンスが無さ過ぎる。


 ここ半年だけでも何回閣僚の同じような失言が話題になっただろうか。失言が発覚する度に野党は総理の任命責任を追及する。自分はいつも馬鹿の一つ覚え的で野党も能が無いと思って見ていたが、こうも失言が続くと本当に現内閣の構造自体に問題があるのでは?とも思えてくる。失言だけでなくテロ等準備罪での法務大臣の内容を理解しているのか疑わしい答弁、裁判に出廷していたかどうかを覚えていられないような、そして戦闘という言葉の意味が良くわかっていないような元弁護士の防衛大臣、震災から避難した人を突き放すような姿勢をとった復興大臣、偏った放送をすれば停波もありえるという見解を示した総務大臣など現政権で複数の大臣の問題発言・行動があった。能力が充分とは思えない人材を起用が多いと思えるのは、実際にはそんなことはなく政権が長いから比例して不祥事の件数も増えているだけと思うのが妥当なのだろうか。

 現政権支持者なのだろうか、「民主党政権でも失言はあった」とか「ころころ首相が変わるよりマシ」などの声をネットで目にする。まず民主党政権と比較してどうかということについてだが、これはネットだけでなく総理自身もよく国会で質疑への反論に用いる。しかしよく考えて欲しい。民主党政権も同じようなことしてたでしょ?ってツッコミの裏には(だけど自民党政権は同じくらいか、いくらかマシ)って思考が隠れていると思う。果たしてそんなに志が低くてよいのか、または自らそう認めてよいのか。ということは結局自民も民主(民進)など野党も同じ穴の狢、どんぐりの背比べってことなのだろう。現政権支持者や安倍総理は民主党政権はダメだったと思っているのは確かだろう。そのダメなものと同じか、いくらかマシ程度で満足できるなんてある意味羨ましい。「ころころ首相が変わるよりマシ」って話もどうにもおかしい。内容が良くなければ寧ろ頻繁にトップが変わっていたほうが全然マシだ。なぜなら変わる回数が多いということは良くなる可能性も高くなるからだ。国の代表が変わらないこと=いいことなら、トルコのエルドアン大統領が憲法改正を決めたことについて、独裁化に繋がる懸念を誰も示さないだろうし、国民投票が僅差で決するはずが無い。

 かといって野党に期待できるかと言えば、そんなことは全く無い。森友学園問題でも事案の真相解明をしようというよりも、現政権への攻撃材料にしようという姿勢が強すぎて見当違いの質問をする場面が多々あった。更に今回の山本大臣の失言に関して、民進党の山尾議員は「がん患者にも失礼」なんて素っ頓狂なことを言う始末だ。「学芸員はがん」発言の”がん”はがん患者じゃなくて”がん細胞”の省略だと考えれば、がん=悪者という認識はおかしくない。愚かな発言に愚かな揚げ足取りで対応していたら本末転倒だ。森友学園の件だって下らない質問を並べ、結局政府与党側に時間稼ぎで風化させる作戦を行う隙を与えてしまった感は否めない。実は野党はそれとなく与党に協力していて、与野党ぐるみの問題隠蔽シナリオが演じられているのではないかなんて考えも頭をよぎってしまう。

 野党がこんな状態ならば、もう残りは自民党内の非主流派だけだろう。個人的には昔から自民には全体的にあまりいい印象がない。しかし、それでも自民内に主流派だけでなく他の派閥があったことで、党内にある種の自浄作用みたいなものがあったように思う。今は大きく動ける時ではないのかもしれないが、自民党内で現政権と少し距離があるように見える、石破茂氏や河野太郎氏あたりに現政権を牽制するような役割を是非担って欲しい。

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