保護者と教職員による社会教育を念頭に置いた団体であるPTAは、日本の多くの学校で組織されている。年初辺りから任意であるはずのPTA加入が半ば強制されている実態について、PTAに加入しないことを公言したりPTA自体の存在意義を疑問視するブログ・ツイートなどが脚光を浴びている。4/24、朝日新聞はあるPTA役員を引き受けた女性によって書かれたブログを取り上げていた。記事によると、女性は「役員をやらずに、文句だけ言うのは無責任」と役員を引き受け、PTAに対する不満を改善しようと、入退会の自由の明確化、役員数を減らすなどの組織スリム化などの改革案を提案したところ、役員経験者から「来年から楽になるなんてずるい。役員をすませた私たちがバカをみたようだ」、「何の権利があってPTAを変えるのか」などの声が上がり、結局前述のような改革案は否決されたらしい。この記事を読んで頭に浮かんだのは、”軍国主義に端を発する、理不尽さを我慢することを美徳とするような、所謂、昭和的な体育会系原理主義的思考”と完全に勘違いとしか思えない公平感が未だに日本には蔓延っているということだった。
それは、誰もが学生時代に一度は経験したことがあるだろう、学校の部活などで受け継がれる悪しき伝統と同質のもので、誰もが経験していることなので、そのまま大人の社会でも同じような感覚が当然かのように残っているということなのだろう。それはオリンピック選手やプロスポーツ選手がバラエティ番組で語る各競技団体やプロチームの状況からも垣間見ることが出来る。新入りが協調性を身につける等の理由で雑用を行うことについて完全に否定するつもりはない。ある意味では日本人の特徴でもある空気を読む能力はそれによって養われているとも言える。しかし空気を読むことは大事な能力でもあるが、空気を読むことを強制することや、強制するような風潮によって大きな弊害が起こることは最近話題になっている”忖度”問題からも明らかだ。
自分が以前働いていた店は中高生が多く集まる店だった。店に来るほとんどの下級生が上級生に対して極普通に敬語で話していたが、その中に下級生・上級生が分け隔てなく所謂タメ語で話す子供たちがいた。彼らはある学校のサッカー部の選手たちだった。なぜそうなったのか不思議に思い彼らに聞いてみると、その時の3年生が1年生の頃、彼らにとっての最上級生である3年生が「自分が先輩から受けた理不尽な扱いを、自分たちが同じように後輩にするのはおかしい」と言い出し、その結果部活内で敬語で話すことも必要ないということになったらしい。中高の部活動では下級生が上級生に敬語で話すことはとても一般的で、ある意味では敬語を使う意味を知る第一歩でもあり、必ずしも必要ないと自分は思えなかったが、敬語を尊敬する人物に対して使うものと考えるなら、たった1年先に生まれただけの部活の先輩に敬語を使う必要性が絶対的にあるのかも疑問だった。彼らは敬語は使わないが、それなりに先輩後輩の関係性があり、ある定度下級生が上級生を敬うような状況は他の部活の子供たちと大差なかった。勿論お調子者的なキャラクターの子が先輩をおちょくるような場面もあったが、そんな子は敬語で喋る他の部活の中にも居る。彼らがその後進学した学校の一般的な部活や、社会に出た時には敬語の使い方、目上の人物への接し方で少し苦労するかもしれないとは思ったが、少なくとも顧問の先生には敬語で接しているようだったし、先輩の荷物を後輩が持たされるとか、理不尽に使い走りにされるなどの悪しき伝統が断ち切られたことの素晴らしさのほうが重要に思えた。
PTAの話に戻ると、「来年から楽になるなんてずるい。役員をすませた私たちがバカをみたようだ」というのは、”自分が嫌な思いをしたんだから、あなたも嫌な思いをしないと不公平”というとても歪んだ公平感に基づいていると思う。自分は”自分がされて嫌なことは、他人にしてはならない”と教えられてきた。自分がされて嫌なことが必ず他人もされたら嫌なこととは限らないが、自分も(嫌なことを)やったんだからお前もしろなんて、その発言の対象が自分の子供でも同じことが言えるのかと聞いてみたい。”PTA役員はやりたくない嫌なことだが、その経験をつむことには意味がある”と言っていると考えられなくもないが、少なくともこの記事からはそう考えて発せられた台詞のようには思えなかった。
外国人観光客などを扱うテレビ番組では、彼らが口を揃えて「日本人は格別に他人に対して思いやりがあり、優しい」と感動する場面が強調される。この記事のような人たちがPTAの実態の全てではないとも思うが、果たして日本人は本当に”優しい”のだろうか。ただ単に外面がいいだけなんじゃないのかと感じてしまう。せっかく日本人は優しいと外国人に思ってもらえているし、外国人の為だけでなく自分たちの為にも”思いやりがあり優しい日本人”という評価を”看板に偽りあり”にしてはならないと思う。