5/3は憲法記念日だ。日本国憲法は1946年の11/3に公布され、翌5/3に施行された。憲法改正に意欲を見せる安倍政権が成立してから、テレビや新聞などもそれについて話題に話題にすることが多い。5/3を目前にTBSの報道特集でも憲法改正の話題を扱っていた。番組が取り上げていたのは、高校・大学などの高等教育を無償化する為に憲法改正が必要だと訴える政治家の存在だった。番組が注目していたのは元文科相の自民党・下村議員と、憲法改正私案を公表し、執行部を辞任した民進党・細野議員だ。二人とも高等教育無償化の実現には必ずしも憲法改正が必要だとは言えないが、高等教育の無償化も現在の義務教育と同じように憲法に盛り込むことにより、その機運をより高めることが見込め、実現の為に近道だとしていた。
個人的にはその話には全く同意出来ない。例えば、現憲法に”高等教育は無償化出来ない”という明確な文言があったり、無償化するべきではないと解釈できる条文があるのならば、高等教育の無償化を行う為に憲法改正が必要だ。しかし現憲法でも法改正を行えば、憲法に抵触せずに高等教育の無償化を実現できる状況であるのに、わざわざ憲法改正に必要な国民投票にかかる80億とも試算される予算を割く必要性がどこにあるのか。その予算は国家予算全体からすれば微々たる物かもしれないが、それでも国家財政の健全化が急務であるのに絶対に必要とは言えない予算を使う余裕などないはずだ。
また、安倍政権が改憲に意欲を見せる最大の目的は”憲法9条の改正”だと自分は思っている。政権成立以降、現在の国内情勢では困難だと思われる9条の改正をいきなり目指すのではなく、まずは9条より国民の支持を得られそうな他の部分での改憲を提案するという方向での様子見状態が続いている。最初に言われたのは改正の発議要件を定めた憲法96条の改定、その次は緊急事態条項の為の改憲、そして最近言われ始めたのが高等教育無償化の為の改憲だ。総理は憲法改正を手を変え品を変え訴え続けているが、結局彼は9条改正に辿り着く為の第一段階の憲法改正は何でも良いと思っているように感じられる。要するに憲法改正が目的の憲法改正ということになるだろう。それは彼が何を改正するのかを訴えることより、憲法改正だけを連呼している様からも感じられることだ。
下村氏や細野氏が絶対的に必要ではない高等教育無償化の為の憲法改正を主張する姿には、総理の姿勢と同じものを感じざるを得ない。彼らも総理と同じ様に9条改正の足がかりと考えているかは分からないが、個人的には戦後一度も改正されていない憲法を初めて改正した人物として歴史に名を残そうというような、名誉欲のようなものを感じる。それは単なる欲だけではなく、今後の彼らの政治家人生を大きく有利にするとも考えているかもしれない。そんなことの為に80億もの国家予算を無駄にされたくないと思うのは自分だけだろうか。
総理は「憲法改正について議論しないのは思考停止。民進党などの野党は改憲草案を提示するべき」という姿勢を示している。憲法改正について議論が出来ない、させない空気があるなら思考停止という指摘も理解できるが、改憲草案の提示が絶対的に必要というのはどうにも話が飛躍しすぎである。改憲草案が必要になるのは憲法改正のについての議論の為ではない。必要になるのは憲法改正の必要性が確実だということを与野党だけでなく、国民の多くが合意した場合だ。憲法改正が必要かどうかの議論では、改憲の必要はないという主張だって有り得るのだから、改憲草案は絶対的に必要ではない。改憲が必要だということになったとしても憲法全体を見直す前提でなければ自民党が提示しているような憲法全体に及ぶ草案を作る必要性もない。総理の憲法改正に対する姿勢には複数の点で違和感を感じざるを得ない。よく彼が野党の答弁に対して「印象操作だ!」という批判をするが、彼自身もその印象操作を公然としていると言えるのではないだろうか。
何はともあれポイントが良く分からないまま、あれがダメならこれで的な憲法改正自体が目的のようにしか見えない憲法改正必要論は政治家のエゴとしか感じられないということだ。9条改正が必要だと思っているなら、まずそれを隠さず前提に話をしてもらわなければ、結局不信感を募らせるだけではないだろうか。