珍しいもの・一般的ではないものを表現するときに”変”という漢字を使った表現をすることがある。”変な”とか”変わった”ナントカのような使い方だ。この変という字には可も不可もなくただ単に一般的ではないということを意図する場合と、おかしい・誤っているというようなニュアンスを含めてネガティブな意味合いで使う場合とがあると思う。”変な”も”変わった”も共にどちらの意味合いでも使われることがあるが、個人的には”変な”の方がよりネガティブなニュアンスが強調される特徴があると感じる。例えば「変わったクルマに乗っているね」と言われたら、単にあまり見かけない珍しい車種というように感じる人が多そうだが、「変なクルマに乗っているね」と言われたら、そんなクルマに乗るなんて滑稽だね、もしくはみすぼらしいねと言われていると聞き手が感じる確率が、”変わった”クルマと言われるよりも数段高くなると思う。人とは違うモノを良しとするマニアの中には、逆に”変な”クルマと言われることに喜びを感じる人もいるだろう。珍しいものを表現する際に”変な”という言葉を使うべきではないという話ではない。言葉の持つ微妙なニュアンスの違いに気をつけて、時と場所を考慮した上で適切に自分の心情を表現し、且つ相手にそれが出来るだけ有りのまま伝わる言葉を選ぶのが、上手いコミュニケーションのとり方だということだ。
今村復興大臣が発した辞任に至る致命傷になった講演での失言だって、これに気をつけていればなんら問題のない発言だったことだろう。彼は講演の中で「震災が起こったのがこれはまだ東北で、あっちの方だったから良かった」と発言したが、彼に”震災が(首都があり人口も多いより関東でなく)東北で起こったことは祝うべきことだ”という意図があったわけではなく、”震災が起こったこと自体は悲しい事だが、震災が(首都があり人口も多いより関東でなく)東北で起こったことは、結果として日本全体に与えるダメージが最大化することがなく不幸中の幸いだった”というようなことを言いたかったのだろう。言葉が足りない・言葉選びが下手だと自分の立場まで危うくするという反面教師的な例だ。最も復興大臣という立場からすれば”不幸中の幸い”なんて表現も使うべきではないとも考えられるし、彼のそれまでの言動について反省があったなら”不幸中の幸い”でも不味いかもと、そこまで考えて然るべきだっただろう。
ネットの普及やオタク文化の隆盛などによるとされる、若者のコミュニケーション能力低下がしばしば話題になり、それが結婚者数の減少に繋がり、少子化に拍車を掛ける要素になっているという意見も耳にする。コミュニケーション能力を身につけたければ、使う表現による相手の反応を知る必要がある。それには兎に角人と積極的に話すべきだ。しかも出来れば電話などでなく顔が見える状態で。当然相手の反応がダイレクトに伝わる対面が最も望ましい。メールなどの文字コミュニケーションよりも相手の反応をタイムラグなしに感じることができる。テレビ電話のようなチャットでも、人と話さないよりはいいかもしれないが、直接顔を合わせることには及ばない。直接対面すると確実に相手の気持ちをより考えることになる。例えば相手の顔が見えないネット上では、平気で暴言を並べる人もいるが、彼らの何割が相手と対面した状態で同じように暴言を発せられるだろうか。自分は半数以上は出来ないと推測する。それは相手が傷つくことを考えることもあるだろうが、対面していれば相手を怒らせ暴力を振るわれることに対する懸念もある。電話やその他の通信手段が発達した現代でも、国の指導者たちが、時折わざわざどちらか・もしくは両方が出向いて顔を合わせて会談する理由の一つに、前述のような対面することの重要性があると思う。ツイッターでは暴言を吐きまくる某大統領が、流石に対面したほかの国の指導者に、傍若無人は垣間見えるが、彼のツイートとほどの過激な態度で対応しないことからもそれが分かる。
同じ内容を表現する場合でも言葉選びが異なれば与える印象は変わってくるし、それを理解することはコミュニケーション上達に欠かせないことだ。それは政治家などだけに必要な能力ではなく、誰もがそれを知ることによって自分の人生を生きやすくすることが出来る大切な要素だと思う。