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銃剣道の背景とその安全性


 銃剣道が中学武道の選択肢に入ることが大きな波紋を呼んでいる。銃剣道は自衛官などを中心に行われている武道の一つで、国体の種目にもなっている。しかし戦前に軍事教育として行われていた銃剣術がそのベースにあり、先週話題になった道徳教科書検定において発覚したパン屋から和菓子屋への設定変更などと同様に、戦前・特に戦中の軍国主義的な教育や政策を想起させることが拒否反応を示す人も多い理由だろう。個人的には銃剣道を純粋な武道・競技として考えれば、中学校の体育で行われることを否定できるかは微妙だと考えるが、周辺状況を考えれば容認できないと思えてしまう。


 どうして銃剣道が学校教育で行われるべきではないと思うかは、たとえ銃剣道が武道だとしても競技の背景に、他の武道よりも強烈に戦中の軍事教育が色濃く滲んでいること
や、剣道でも中学生以下では突きを禁止しているのに、銃剣道はベースが相手に致命傷を与えることを目的とした軍事訓練であるため胸部や喉などへの突き攻撃に特化している点がやはり最大の理由だと思う。他にも、そもそも重大な怪我をする恐れのある武道を銃剣道だけでなく他の武道も含めて学校体育で行う必要があるのかという意見もあるが、個人的には水泳の飛び込み問題同様に安全な競技方法を指導すればよいと思っているので、武道自体を学校教育で行うことには疑問を持っていない。しかし逆に言えば水泳の飛び込みについて現在はその危険性を問題視し、学校体育で行うことを禁止する方向に向かっているのに、武道、特に突きだけが重視される柔剣道を許容するということは、安全に対する認識の整合性を計るという意味では合理的な判断とは思えない。

 話を銃剣道と軍事教育の関係性に戻すと、先に銃剣道は自衛官を中心に行われていると書いたが、別の言い方をすれば行っているのはほぼ自衛官とも言える。これも銃剣道に軍事教育的なイメージを抱く人が多い理由だろう。いくら銃剣道の教育への採用支持者が軍事色は薄められていると主張しようが、ベースにある銃剣術が過去に軍事教育として行われていた事実が消えることはない。なぜ戦後70年以上、学校教育で銃剣術が行われなかったのかと言えば、多くの戦争経験者たちが銃剣道を確実に戦中軍事教育と同一視してきたからだろう。それはやはり他の武道との大きな大きな差だ。

 ドイツではナチス式敬礼を連想させるとして日本で行われているような通常の挙手はせず、人差し指で天を指すような挙手をしている。挙手自体はナチス的教育でも何でもないし他国の人にとっては全く問題ないことだが、虐殺を行ったナチス時代がトラウマとなっているドイツでは避けられている。日中戦争・太平洋戦争を経験した日本人にとっても同じように軍国主義は多くの人のトラウマだ、戦中軍事教育を色濃く連想させる教育勅語や銃剣道などは教育に用いられてこなかったという戦後の歴史がある。戦後70年が経ち徐々に戦争経験者が少なくなっている現在、ドイツに限らずヨーロッパでも再びポピュリズム・ナショナリズム的な思想を掲げる団体が勢力を増している。同様に日本でも戦争経験者の減少と共に戦前戦中を美化するような思考が幅を利かせ始めたと言えるのかもしれない。過去に捕らわれないとか、未来を見る・前向きなどと言えば聞こえは良いかもしれない。しかしそれが同時に歴史から目を背け同じ過ちを繰り返すことであってはならない。

 ”銃剣道が軍国主義的だ”とするのはある意味では過剰反応とも言えるだろう。しかしその過剰反応は人間の歴史上最悪の戦争を経て生まれた反応で、しかも何百年も前の話ではなく1世紀すらまだ経っていない最近の話だ。個人的には決して銃剣道を行うこと自体を否定する気はない。やりたい人がやる分には一向に構わない。それは戦車や戦闘機などは戦争の道具である殺戮兵器だが、趣味としてそのデザインなどを愛好することは、殺戮兵器や戦争を肯定することとは必ずしも同じ意味ではなく、好きか嫌いかは別として他人が強く非難し否定するのは、別の意味で適切ではないということと同じだ。しかし半ば強制的に行われる義務教育の一環として戦争を強く連想させる銃剣道を敢えて選択肢に入れる・行う必要性があるのかどうか、自分には必要性が感じられないどころか好ましくないとさえ思える。武道での精神教育という話は好きではないが、精神教育が教育上必要だとしても銃剣道が他の武道よりその点で優れているということもない。要するに他の競技よりも柔剣道が多く持つ様々な懸念を上回るほどの利点があれば話は違うかもしれないが、そんな利点は感じられないということだ。

 どうしても学校で銃剣道を普及させたいのならまずは同好会や部活動で行い、時間をかけて銃剣道=軍事教育的というイメージの払しょくを行ってから、というのが適切に段階を踏むということではないだろうか。

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