BuzzFeed Japanに4/15、「信頼失う新聞・テレビは滅ぶのか 池上彰さんが「楽観できない」と語る理由」という記事が掲載されている。昨年の米大統領選以来話題になっている所謂フェイクニュースと、ネット・SNSの普及と反比例するように下がるテレビ・新聞など既存マスメディアへの信頼の低下について書かれたものだ。この記事を読んで、記事にもコメントつけたが、既存のマスメディアに対して攻撃的な人は、”嘘つき”と口撃するが、しかしテレビ・新聞と同じように、もしくはそれ以上にネット上にも嘘つきは多い。ただ”嘘をつく”人がどこで嘘をつくかが変わっただけで、ネット以前も以後も状況は実際あまり変わってないと思う。テレビ・新聞など商業メディアは金が絡んでいるから信じられないと言う人もいる。しかし”嘘をつく”人の動機が必ずしも金とは限らない。さらにネットでの発信に金が絡んでいないという考えもある意味では幻想だ。要するに既存の大手マスコミ嫌いというのは、伝えられる情報の真偽について考えることに疲れた人や悪い部分だけを強調したい人が、新しいメディアであるネットの良い部分だけを見て妄信しているように見える。と感じた。
同じ日にBuzzFeed Japanは、「人のプライバシーを暴いて何が楽しい?「文春砲」は正義かジャーナリズムか、それとも…」という記事も掲載している。説明はもはや不要かもしれないが、週刊文春の取材手法・姿勢などに関する内容だ。こちらも記事にコメントをつけたが、道徳的な問題(政治的な側面のある道徳的な問題は別)、特に個人的なプライベートの範疇である話を、まるで犯罪でも犯しているかのように糾弾する姿勢には全く同意できない。文春だけでなく、その流れに乗ってしまうテレビ・新聞も同じようなもの。視聴率や売り上げを目的にそういう下世話なネタを、政治・犯罪・国際情勢などの報道ネタと同列に扱ってしまう姿勢が、既存マスメディアへの信頼度を落とす理由の一つだと気付いて欲しい。文春のような週刊誌と、全てのテレビ番組・新聞が同じレベルでは困る。と感じた。
二つの記事に自分が付けたコメントは一見相反する内容だと自分でも思う。しかし一口にテレビ・新聞と言っても各テレビ局・新聞社によって傾向は少しずつ違うし、更に新聞なら社は同じでも記者によって、テレビなら局は同じでも、スタッフや番組によってそれぞれの姿勢は全く同じではない。だから既存マスメディアへの見解が自分の中に複数あることについて矛盾しているとは思わない。
テレビで言えばNHKニュースが文春のように芸能人などの不倫ネタを大々的に取り扱うことはないし、民放でも昼の11:30前後や夕方6:00前後の報道番組ではそんなネタはほぼ扱わない。ただ、民放ではそれらの報道番組がワイドショー的なニュース番組の一部として一体化しており、番組表でも区別されていない為、見る人によっては”民放には信頼にたる報道番組は一つも無い”と感じてしまうことも想像できる。さらに諸外国がどうかは知らないが、日本では団体責任という考え方を子供の頃から教えられるという状況がある。例えば高校野球などで、一部の部員が問題行動を起こすと部全体で活動自粛・出場停止処分が行われたりする。今は無いかもしれないが、以前は野球部員でなくともその学校の生徒が問題行動を起こすと野球部まで活動自粛・出場停止処分なんてことがあったと思う。要するに一つの番組のイメージがそのテレビ局全体のイメージになってしまいやすい状況があるのだろう。ただ、ある番組の姿勢が好ましくなくても、その局の番組全てが不適切とは言えないが、そのような番組の放送を認めたのはテレビ局自体だとも言える。テレビ放送はネットや新聞と違い公共の電波を使用する許可を得て行われているので、より槍玉に上げられやすい。
新聞はスポーツ紙と一般紙で、ある程度報道性重視と娯楽性重視とが分けられているように思うが、テレビ・特に民放は視聴率を気にする余りにその垣根が見え難くなり、各局の報道に対するの志が低く見えてしまう状況に陥っていると感じる。そこに池上氏も記事で指摘しているように、新聞・週刊誌・ネットなどを情報のソースとし、時には裏取りもせずに伝えるという手法などが加われば、その志の低さは更に強調されて見えてしまうのだろう。