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イルカ問題と道徳教科書問題の共通点


 山口県の海響館・神奈川県の新江ノ島水族館が先月末限りでJAZA(日本動物園水族館協会)から退会していたことをNHKなどが報じている。この背景には和歌山県太地町で行われている追い込み漁でのイルカの入手を、WAZA(世界動物園水族館協会)から倫理規定に違反していると指摘を受けてJAZAが禁止したことがある。JAZAがこの方針を示したことで既に太地町のくじらの博物館や静岡県の水族館も既に退会している。イルカの追い込み漁が非難を受けるような行為なのか、これは本質的には感情的な問題だ。以前に書いたサーカスで動物に曲芸させることや、韓国などのアジア一部地域にある犬肉食の文化、あるいは捕鯨の是非なども同様だ。結局のところ特定の宗教感・道徳感的な感情、個人的には欧米キリスト教的な思考をグローバリズムの隆盛を背景に世界共通の普遍的な価値観であるかのように捉え、他の文化圏へ押し付けているに過ぎないと感じている。


 これまでの経緯を要約すれば、

1.
”世界”動物園水族館協会(WAZA)と言いつつも、実際は欧米中心の団体から日本への価値観の押し付け

2.
それに屈したとも、あるいは大人な対応とも思える、その価値観の押し付けを受け入れた日本の協会(JAZA)

3.
4つの水族館が、おかしいことはおかしいと暗に主張しJAZAを退会した

ということだろう。自分は、絶滅を誘発するような乱獲とは到底言えないレベルでのイルカの追い込み漁が、他の漁業や畜産に比べて厳しく批判される程残酷だとは思えないので、研究などの学術的な活動や日本ではあまり見ることの出来ない種の展示などは困難になるだろうが、そのリスクを考えた上での4つの水族館の判断を支持したい。

 同じような問題が、道徳の教科化・教科書検定の問題にも潜んでいると思う。イルカの追い込み漁を嫌悪するか否かという価値観と同様に、個人の道徳感は教科として成績を判断できるようなものではないし、まして正しい道徳など1つに限定できるものではなく、国・文科省が強く介入するべきではない。これは道徳に限らず国語や歴史など様々な視点で考える必要がある教科全てに言えることだが、ディベートなどを中心に他の人の考えを聞いて道徳について学ぶというのなら賛成だが、検定を受けた教科書のみを用いて、まるで”正解は1つで他は間違い”というようなスタンスで行われる教育を文科省や国が推奨するようなことが適切とは思えない。そして今後そのような事態を招かないように文科省が仕事をすることを望んでいる。

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