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性産業への偏見


 ハフィントンポストで、4年前に境界悪性卵巣腫瘍を患い卵巣を全摘出した元AV女優の麻美ゆまさんを取りげている(その1その2)。その中で病気を公表した彼女に対して「セックスのやり過でそうなったんだろう」とか「AV女優だから仕方ないな」とか「自業自得だ」とか、おそらく性産業に従事する人への偏見に基づくと思われる、心無い誹謗中傷があったことが紹介されている。自分の経験上こういう発言をする人は男女共にいる。このような発言をする女性は性を売ることについて根本的に嫌悪感をもっており、偏ったフェミニズムに傾倒していることが多い。つい”偏った”と表現したがそれは、自分は支持できないしそれは誹謗中傷を正当化する理由にはならないが、その考え方自体はグレーゾーンではあるものの宗教観や道徳観と考えれば完全に否定できるもとも言い難いと考える。


 性質が悪いのはこのような誹謗中傷をする男性だ。男性の中にもAV女優や風俗産業に携わる女性を卑下する人が一定数いる。個人的には一定数どころか半分くらいはそうなんじゃないかと感じる。男性に「自分の彼女がAV女優や風俗嬢だったらどうか?」と聞けば、積極的か消極的かは別として大多数が「嫌だ」と答えるだろう。ある意味でそれは「自分の彼女には自分だけを見ていてほしい」という価値観に基づく当然のことのようにも思える。しかしそう答えた男性の中で一体何人が風俗に行ったことがない人だろうか、風俗に行ったことはなかったとしても、その大多数はAVを性的な目的で見たことがあるはずだ。AVをヌードグラビア、いわゆるエロ本・アダルトサイトにまで拡げればその数は「嫌だ」と答えた男性とほとんど同数になるだろう。

 要するに多くの男性が性産業に従事する女性に何らかの形で性的に”お世話”になっているにもかかわらず、意識的か無意識かはわからないが彼女らを卑下していると言えると思う。自分はAVに出演できる女性や風俗産業で働く女性は、ある意味では出来ない女性より優れていると思うし尊敬さえしている。勿論中には世の中を舐めたような態度で仕事をしている女性もいるだろうが、そんなことは性産業に限ったことではない。性産業に従事する女性を称賛しなければならないなんて言うつもりは決してない。だが彼女たちの存在に感謝することはあっても卑下したり貶したりするのは間違っている。風俗に来た年配の男性が風俗嬢に「こんなことをやってちゃいけない」と説教することは、とても滑稽だと多くの人が感じるだろう。自分が風俗へ行ったり性的な目的でAVを見たことがあるのに、彼女らを卑下することがどんなに滑稽か気が付いてもらいたい。

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