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「死にたきゃ勝手に死ね」の危険性


 藤田 孝典さんという社会福祉士で大学教授が、Yahoo!ニュース個人に投稿した「川崎殺傷事件「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい」という記事が話題になっている。これは昨日・5/28の朝、川崎市で起きた通り魔事件に関する記事だ。スクールバスを待つ小学生らが刃物で襲われ、小学生1人と保護者1人が死亡し重傷者も複数出た。犯人とみられる男性は自らも首を刃物で切り、病院に運ばれたがその後死亡した。
 当該記事はSNS上等での言説に対する見解でもあるようだが、落語家の立川志らく氏が、事件から数時間後に出演したワイドショーで「死にたいなら一人で死んでくれ」と発言していたようで(スポーツ報知)、もしかしたらそれを前提に書かれた記事なのかもしれないし、別の番組・別のコメンテーターなども似たような発言をしていたのかもしれず、そういうことをひっくるめた話なのかもしれない。
 この記事に反論している人も相応にいて、彼らはどうも「犯人の人権がそんなに大事か?」とか、「犯人を擁護するような事を言うべきじゃない」という認識に基づいて主張しているように見えるが、それは見出しに引きずられ過ぎだろう。何度読み返してみても当該記事がそんなことを主張しているようには思えない。強いて言えば、そのような誤解を生みかねない見出しにも問題性がないわけではないだろうが、この見出しが強く錯誤を誘発するような表現とは言い難く、見出しにばかり注目する者の問題性の方が高そうだ。


 前述の報知の記事を検索した際、22歳の男が東海道新幹線内でナタで切りつけるなどして、男女3人を死傷させるという事件が昨年・2018年6月に発生した際に、タレントのカンニング竹山さんが、出演したワイドショー番組で「死ぬなら勝手に死ね」と発言したという話が出てきた(Google検索「カンニング竹山 死ぬなら勝手に死ね」)。この発言には今回同様に各方面から賛否両論が起きたようだ。自分は当該番組を見たわけではないので、彼がどんな思いで当時そう発言したかはよく分からない。そして自分が被害者の遺族だったとしたら、まず最初にそのセリフが頭に浮かぶかもしれないとも思え、絶対的に不適切な発言だとまでは思えない。それは前述の志らくさんの発言でも同様だ。しかし、冒頭で紹介した記事で藤田さんが指摘していることなどを勘案すれば、どこの誰かもわからぬら者による、SNS上での便所の落書きのような主張ならまだしも、少なからず影響力のあるタレントがテレビで、「死にたいなら一人で死んでくれ」「死ぬなら勝手に死ね」等の発言をすべきでないと思う。
 カンニング竹山さんの件については、彼が当該発言についての持論を示した記事もあったので、一応リンクを掲載しておく。

 今回のように、犯人が凶行に及んだ後に自殺するという事件は、海外で起きる銃乱射事件や、2015年に起きた東海道新幹線火災事件(Wikipedia)など、国内外でしばしば起きている。そのような事件を目の当たりにした際に「死にたきゃ勝手に死ね」と感じてしまうこと自体はそれ程不自然でない。
 自分は大学生の頃に人身事故(未遂?)に遭遇したことがある。大学からの帰宅途中に駅で電車を待っていた際、自分が乗るはずの電車が到着する寸前に、駅の直前にある踏切に人が侵入した。停止直前で列車が徐行していたこと、当人が怖気づいたのか接触寸前にしゃがみ込んだ為に列車と地面の間に入ったことなどから、その人は大きな怪我もなく駆けつけた警察官に連行された。しかし点検などの影響で30分-1時間程度運転見合わせになった。その時の自分も「死にたきゃ他人に迷惑をかけずに勝手に死ね」と思った。
 しかしその手の自殺方法を選ぶ人や、自殺を前提に凄惨な事件を起こす人は、例えばニュージーランドの乱射事件(3/18の投稿)や、5/20の投稿でも触れたコロンバイン高校乱射事件などからも分かるように、社会などに対して何らかの不満を持ち、それを訴える為に、注目を集める為にそのような行為に及ぶ場合が多そうだ。つまり彼らに「死にたきゃ勝手に死ね」と言っても、多くの場合暖簾に腕押しになるだろう。つまり「死にたきゃ勝手に死ね」は単なる捨て台詞にしかならない。

 しかしその一方で「死にたきゃ勝手に死ね」という言葉は、現在自殺を考えてしまっている者の心には刺さってしまう恐れがある。つまりその言葉は、刺さって欲しい人には届かず、刺さって欲しくない人に届いてしまう恐れのある言葉だ。
 現在日本の10万人当たりの自殺率は世界の平均を大きく上回っている(Wikipedia:国の自殺率順リスト)。近年は一応減少傾向ではあるものの、19歳以下の自殺者数は増加しているそうだ(日経新聞)。厚労省が公表する自殺対策白書によれば、15-39歳のどの年代においても自殺が死因のトップなのだそうだ(教育新聞)。東京都でも自殺対策強化月間を設けている。以前渋谷区役所に自殺予防を呼びかける垂れ幕が掲げられていたのを見た際には、それ程自殺の増加が深刻な状況なのかと衝撃を受けた。
 もし日本の自殺率が他国よりも低いならば、「死にたきゃ勝手に死ね」という言葉もさほど深刻な影響を及ぼさないかもしれない。しかし、自殺率が近年低下傾向だったとしても、それでも世界の平均値を大きく上回っているのは事実で、特に若年層では未だに増加傾向である。つまり世の中には自殺予備軍が相応に存在し、刺さって欲しい人には刺さらないであろう「死にたきゃ勝手に死ね」という言葉は、刺さって欲しくない者の自殺を助長することになるだけ、という結果を招きかねない側面がある。絶対に発してはならない言葉・表現とまでは言わないが、怒りに任せて、つまり感情的になって、テレビで軽々しく発信するのにはそぐわない表現とは言えるのではないだろうか。


 今回の川崎の事件のような凶行に及ぶ人というのは、自殺が未遂に終わった場合などに「誰でも良かった」とか「むしゃくしゃしていた」のような事を言いがちだが、十中八九自分よりも弱い者に刃を向けており、決して「誰でも良かった」わけではなく「自分より弱い者ならば」という部分が省略されているように思う。なぜ自分よりも弱い者を狙うのかと言えば、被害を拡大させて注目を集める為という側面が少なからずあるだろう。
 前述したように「死にたきゃ勝手に死ね」という言葉は概ね、彼らやその予備軍には刺さらない言葉で、つまり「死にたきゃ勝手に死ね」という言葉をテレビで発信したところで問題は何も解決しないし、事件の再発防止にもならない。言いたい事を言うのは気持ちがいいだろうし、同じことを思っている人にとってはストレス発散にもなるかもしれない。しかし最も重視しなければならないのは、事件の傍観者のストレス発散ではなく、同じような事件が再び起きないようにすることだ。
 少し極端な話かもしれないが、自殺率が低下すれば、つまり自殺予備軍・自殺を考えてしまう者が減れば、自暴自棄に陥る人も同時に減るだろうから、同様の事件の再発防止の為になるだろう。要するに、同様の事件の再発防止には閉塞感の高い社会状況の改善が必要だ、と言えるのではないか。テレビで「死にたきゃ勝手に死ね」なんて言葉が飛び交うようでは、 寧ろ社会に蔓延する閉塞感に拍車をかけることにもなりかねない。勿論それは、現在テレビと同様かそれ以上に影響力があるSNS上でも同じだ。


 昨今は歯に衣着せぬ発言をする者が、政治の世界でも芸能の世界でも、その他の場面でも一定の支持を集める傾向にあり、トレンド化しているとさえ言えそうな状況だ。
 例えば直近強い批判に晒された戦争容認発言の維新・丸山 穂高議員や、度々差別的な言説が指摘されてきた長谷川 豊氏などはその典型的な例だし、百田何某とかいう作家や維新の何某という政治団体を作った橋下氏や、その4人程ではないかもしれないが、カンニング竹山さんや立川 志らくさんなどもその部類だろう。歯に衣着せぬ発言というのは、ある意味では忖度無しの態度とも言え、時には物事の本質を鋭利に切り出す場合もある。しかし鋭利な言葉は場合によって思わぬ人を傷つけることもあれば、感情的で短絡的な表現になってしまうことも往々にしてある。
 今回の川崎の事件のようなことが起きた際に、「死にたきゃ勝手に死ね」という言葉を吐くのもそれはそれで自由の範疇だろうが、その表現を使うのなら日本の自殺率、特に若年層の自殺率の高さや、なぜ自殺率が高いのかまで考えてから使って欲しい。自分には「死にたきゃ勝手に死ね」はある種の自己責任論のように思えてしまう。勿論凶悪な事件自体は到底許せるものではなく、そんな意味での「死にたきゃ勝手に死ね」という言葉であることも理解はできるが、その表現を用いなくても「許せない」という感情は表現できるはずだ。

「死にたきゃ勝手に死ね」という言葉は、本来の意味で「誤解を招きかねない表現」


だ。

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