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誰のための教育か


 BuzzFeed Japanであるインド人女性が書いた記事が紹介されている。「インドの子どもたちは、目上の人に対して異議を唱えるのは失礼だと教え込まれて育つ。そして大人になってからも、社会について批判的思考を持つことができない。」という内容だ。この記事を読んで日本でも同じようなことはあると感じた。記事の内容ほどではないにしろ、理由の良くわからない校則を守れと言われたり、誰かが決めた中学生・高校生らしさという価値観を押し付けられたという経験が多くの日本人にあるはずだ。こういう状況は秩序のある社会を形成するのに役立つという反面、主張が出来ない・自分で考えられない、もしくは自分で考えるという習慣がない人間を育てているとも言えるのではないかと思う。


 自分が通っていた中学校では、バスケットシューズのような踵を覆う形状のスニーカーを履いてきてはいけないという校則があった。革靴での登校が推奨されているならこの校則は理解出来るが、普通のスニーカーは良くて、というか登校は運動靴で、革靴はむしろダメという学校だった。数人の先生にこの校則の理由を聞いてみたところ、全員がお茶を濁し最終的には中学生らしくないからという答えだった。当時の自分にも、というか今でも全く納得がいかない。ブレザーの制服に運動靴という姿は、当時はなんとも感じなかったが、今考えれば結構間抜けな格好だ。もちろんブレザーの制服にバスケットシューズも十分間抜けな格好だが、そこに大差はない。中学生らしい格好が間抜けな格好なのだとしたら、スニーカーの踵形状なんてどっちでもいいはずだ。

 このよくわからない校則自体も自分にとっては問題なのだが、それよりも中学生だった自分が持ったその疑問について、両親・先生など大人の誰もが納得のいく説明を出来ないことに大きな疑問を感じた。「中学生らしくない」以外に聞こえてきたのは「ルールだから」というまるで素っ頓狂な言葉だ。ルールはルールだから守らないといけないのではなく、ルールを守らないと何らかの不都合が生じるから守らなくてはいけないのだと思っている。ルールだから守らなくてはいけないということでは、”自分で考えることを放棄して他人に(特に目上の存在)に逆らうな”ということとほぼ同じことだろう。更に言えばそれではルールの改正など絶対に起こらない。儒教や宗教的な考え方にも良くあるように、目上の者・年長者は自分より長い経験があるので敬うべきであり、それが自分や社会の利益に繋がるという側面もある。だから先人が作ったルールには、自分がわからなくても何かしら意味があると考えたくなる気持ちもわかる。しかし目上の者が必ず正しいルールを作る、もしくはルールを作った当時は正しかったのかも知れないが、現状でも正しいとは限らないということも事実だ。

 森友学園での教育勅語暗唱を発端に内閣関係者の一部が、教育勅語の暗唱自体は否定されるものではないという見解を示している。まず、内容の良し悪しが判断できないような子供に、憲法上の問題が懸念される教育勅語を呪文のように唱えさせることは、刷り込み・悪く言えば洗脳と言えないか。果たしてそれが教育といえるのか。考える力を養うことを阻害するとも思える。教育勅語は発布当初は素晴らしかったのかもしれない。しかし現在の社会に適さない部分があること、戦中に偏った教育の道具に使われたことは事実だ。

・教育勅語の暗唱は教育に向いていないとは言えない
・教育勅語の暗唱は現憲法に反しない

彼らは二つの意味で間違いを起こしている恐れが強い。以前から彼らがこのように考えていたのか、それとも森友学園問題に関して、当初首相らがかなり強気・無理のある「国有地の価格は適切」「自分や妻がこの件に関わっていたら総理も議員もやめる」「忖度なんてあるはずがない」などの発言をしてしまったから、整合性を図るために仕方なくこんなことを言い始めたのかはわからない。しかしどちらにせよ冒頭のインドの女性が記事で書いている懸念、「子供に目上の人に対して異議を唱えるのは失礼だと教え込み、大人になってからも社会について批判的思考をさせないようする」ことを目指しているのではないかと思えてしまう。こう批判すれば、彼らは「教育勅語の積極利用を支持している訳ではないので批判は当たらない」などと言うだろうが、彼らの積極的な支持者の思考、道徳教科書検定の問題などを考慮すればその回答も怪しいと考えるのが妥当だろう。

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