「私 日本人でよかった」というコピーの、どんな趣旨があるのかわかり難く、どこが作ったのか出所も分かり難いポスターが、掲載されている女性モデルが日本人ではなく中国人だったということで一気に注目を浴びている。5/9のハフィントンポストの記事によれば、このポスターは、神社本庁が”日本の伝統を振り返るために祝日に国旗を掲揚する運動の一環として、2011年に神社の社殿前に掲示してもらうために6万枚を全国の神社に配布した”ものらしい。個人的にはこの”日本の伝統を振り返るために祝日に国旗を掲揚する運動”を神社が推進するのにも少し違和感を覚える。自分は古来から続く民俗的な神道と、明治以降の国家神道は別物と考えている。言いたい事が全く分からなくはないが、”日本人でよかった”というコピーは民族主義的にも感じられる為適切だとは思えない。そういう意味ではきっかけは何であろうが、このポスターの賛否についての議論が起こったことは良かったと思う。
しかしハフィントンポストはこのポスターのモデルの国籍が中国人であるということに注目し、5/10に「『日本人でよかった』神社本庁のポスターのモデルは「中国人で間違いない」 カメラマンが断言」という記事を更に掲載した。しかもそれは1日中だったかどうかは分からないが、自分が見たタイミングではサイトのトップ記事として、他の記事の3倍以上のスペースを割いたバナーで掲載されていた。
何が言いたいのかと言えば、「日本人でよかった」というコピーのこのポスターは日本国籍=日本民族のみという意識を表現していると思われかねない為、適切ではないというのが、このポスターに対する懸念の本質であると考えるが、このポスターのモデルの国籍が中国であることとそれは全く関係のないことであり、たとえモデルが日本国籍だったとしても適切だとは言えないのにも関わらず、ハフィントンポストの記事はモデルの国籍が中国人であることが不適切であると言っているようにも読めてしまうし、それは日本人は日本民族のみであるべきといったような価値観を表現しているようにも感じられてしまう。さらに数ある5/10のトピックの中でそれが最も重要であるかのように扱うハフィントンポストの姿勢にも疑問を感じざるを得ないということだ。
確かにハフィントンポストの5/10のその記事は明確にはモデルが中国国籍なのが問題だとも書いていないし、問題ではないとも書いていない。しかし個人的には記事の内容は日本人でよかったなんて言ってるのに、モデルに日本人でなく中国人を使うなんて滑稽と言っているように感じられる。個人の感想なので記者はそのような主張はないと言うかもしれない。しかしコメント欄を見ると自分と同じように感じている人は他にも居るようだ。
ハフィントンポストや記者がこのポスターの適切さについて疑問を呈したところまでは当然賛同するが、モデルの国籍に焦点をあてていることについては賛同できない。何故ならモデルの国籍に焦点をあてることは、このポスターのコピー「日本人でよかった」が適切なのかという疑問と同種の疑問を抱かせるからである。
現在日本のスポーツ界では、アフリカ系を中心とした日本人とのハーフが多く活躍している。それに中国・韓国を中心にアジア系ハーフの日本人も増えているし、世界各国から日本に帰化した非日本民族の日本人も確実に増えている。要するに日本人は日本民族だけではない。ポスターのモデルの国籍が中国人だったことに強くスポットを当てるということは、個人的には漢民族系の日本人を否定・差別することに繋がりかねないと思う。このモデルの国籍について論じることは、もしこのポスターのモデルが例えばダルビッシュ投手だったとして、それに対して「彼は純粋な日本人じゃないので相応しくない」と言うのと同じような行為だと思える。そのような観点からすれば、この記事を書いた記者の意識と、ポスターを作製した人々の意識には大した差はないということだろう。
そういう意味でこの5/10の記事や、書いた記者には嫌悪感を感じざるを得ないのだが、それをその日の最も重要なニュースとして扱ったハフィントンポスト自体の姿勢もそれらと同じ程度、あるいは記者よりも知名度が高く、社会に強い影響力を持つメディアだと考えれば、より強い懸念を感じてしまう。このポスターについてを懸念を示すことについては歓迎するが、争点を誤ると自らもポスターと同様の不適切さを表現してしまうことに気がついて欲しい。