安倍総理が5/3・憲法記念日に憲法9条改正について言及し、大きな波紋を呼んでいる。自衛隊が違憲である恐れを憂慮し、出来るだけ速やかにそれを解消すべきだという見解を示した。しかも以前から明らかにしていた自民党改憲草案とは異なり、戦力の不保持を謳った9条2項はそのまま残し、どういう文言にするべきかについては言及しなかったが、自衛隊の存在を加えて明記するという奇妙な方法を提案した。この件についての直接的な影響・問題点、内閣総理大臣と自民党総裁の立場の使い分けだとか、自分の考え方については読売新聞を読めという国会答弁などにも大きな違和感があるが、彼がオリンピックを目処に2020年までに憲法改正を目指すという表現をしたことの不適当さに、個人的には最も嫌気が差した。
自分は、安倍首相のこれまでの憲法改正に対する態度から、彼が憲法改正したいのは、社会をより良くする為でも憲法の不備を正す為でもなく、ただただ戦後初めて憲法改正を推し進め成し遂げた総理大臣になりたいだけだと思っている。若しくは自主憲法制定などと言いながら、日本の国民でなくアメリカ政府の顔色ばかりを伺い、日本の為よりもアメリカ政府の為に9条の定めた戦争放棄を改め、軍事力を持つことを目的にしていると考える。アメリカ政府の為だろうと日本人が主導すれば自主憲法であると言えるかもしれないが、そこに果たして自主性がどれほどあるかは疑問だし、ならば現在の日本国憲法だって充分過ぎるほどに自主憲法だ。
この見解についてはやや言い過ぎな部分もあるかもしれないが、自分にはそう思えてならない。似たような感覚を覚える人も少なからずいることから、今回の首相の憲法改正に対する言及が大きな波紋を呼んでいるのだと思う。さらに憲法改正の出汁にオリンピックを用いるなんて姑息なやり方をされたら余計に不信感は強まる。
私たちは、オリンピック招致に際して、彼が「(福島原発事故は、若しくはそれによる汚染は)アンダーコントロール」と発言した時に、彼はオリンピックを政治利用していると指摘しキッパリと批判するべきだったのだろう。当時は震災・原発事故の影響がまだまだ色濃く日本中に残っており、人々には早く不安を取り除いきたいという願望があった。そこへ復興五輪なんて耳障りの良い看板を掲げていたこと、コンパクトでお極力金の掛からないオリンピックを開催するという推進派の主張を鵜呑みにし、オリンピック開催に関して、今考えれば幻想のようなものが国民の間に存在していたこと、また安倍総理による経済政策の先にある未来は明るいという見通しがあったことなどにより、彼の発言の嘘をメディアも国民も見て見ぬふり・無視したと言えるだろう。だから2020年のオリンピック東京開催が決まった時、メディアも大多数の国民も好意的に受け入れた。自分の記憶には招致に関与したアスリートらだけでなく、それを紹介するメディア出演者、新聞なども歓迎ムードだったし、自分の周りにも開催決定に懸念を強く示す人はほとんどいなかった。だが蓋を開けてみれば、ご存知の通り、組織委員会は無責任で自分たちの立場を維持しようとするばかりだし、コンパクトで金の掛からないオリンピックなんて全くの嘘で、これまでで最も金の掛かるオリンピックになることは避けられない情勢である。悪く言えば、組織委員会や招致を推進したアスリート、招致を後押しした政治家らに、東京都民だけでなく国民の多くが騙されたとさえ表現できると自分は思う。
招致活動の広告塔に自らなったと考えれば、アスリートらにも一定の責任はあるとも思えるが、彼らは政治的判断や経済的判断のスペシャリストではなく、広告塔として利用された側面もあると考えれば、彼らよりも組織委員会や推進派の政治家たちの責任のほうがより重い。招致活動時に掲げていた数字の数倍に膨らんでいる予算だけを考えても彼らのいい加減さが分かる。推進派の政治家もアスリートと同じように組織委員会に騙されたのだという見方も出来るかもしれない。しかし政治家はアスリートとは異なり政治的判断の専門家であり、組織委員会に不備があるようなら指摘し正す責任はアスリートらに比べて遥かに高いと自分は考える。特に首相などはその影響力の大きさから慎重に検討した結果の推進であった必要があると思うし、その行動については一定の責任が当然発生するだろう。
安倍総理大臣のオリンピック政治利用はその後も幾度となく繰り返されてきた。リオオリンピックの閉会式では首相自らが派手なパフォーマンスを行っていた。多くのメディアはそれをわりと好意的に報道していたが、個人的にはかなり嫌悪感を覚えた。ベルリンオリンピックをあからさまに政治利用したドイツの歴史上最大の汚点とも言える独裁者を想起させたからだ。多くの懸念が示され、治安維持法の再来になることも指摘されている共謀罪(テロ等準備罪)はオリンピック開催の為に必要なんて見解を示していることも同じような印象を感じる理由だし、今回の憲法改正とオリンピックを結びつけるような発言、その発言の中で、オリンピック後、憲法改正後の我が国を「新しく生まれ変わる日本」などと曖昧で耳障りの良い言葉を使って幻想的に表現していることなども、言葉は悪いが相当インチキ臭い。
自分は、東京開催に限らず、元々オリンピックにはこれまでもそれ程興味はなかったが、直近20年以内のオリンピックのいくつかで使用された設備がその後役に立っていないことや、開催に関して多くの問題を抱えていたことなどを考えれば、東京開催する意味は何なのかにも疑問を抱いていた。しかし開催決定以前の試算などだけで考えれば、彼らが”オリンピックに関して日本・東京はそれらと同じような過ちを犯さない、そうならない能力が私たちにはある”と言っているように思えたし、積極的に反対する必要があるとも思えなかった。しかし、それは幻想だったことがほぼ確定し、そうなっても尚、首相をはじめとした推進派の政治家たちはオリンピックと言えば何事の大義名分にもなるという風で、都合良く解釈するばかりだ。
「金が掛かろうが何だろうが、開催が決まっているのだから、やり遂げねば面目が立たない」という話があるが、だったら資材の高騰だとか人件費の高騰だとかを理由に逃げずに、まず予算検討の甘さを認め頭を下げるべきではないのか。誰の為に何の為にオリンピックが開催されるのか、かなりそれが怪しくなっているのに、それでもまだオリンピック開催の為なら何でも許されるというような首相をはじめとする政治家の姿勢は全く容認できるものではない。