「-は迷惑」と言われれば、何でもかんでも自制・自粛・規制・禁止される風潮はいかがなものか。個人的には「-は迷惑」と過剰に主張する人らは「-は気に入らない」を「-は迷惑」と言い換えている、それこそ迷惑な存在だと感じている。盆踊りや夏祭り、除夜の鐘、保育園、公園で遊ぶ子供の声などをうるさくて迷惑と言う人が増えているようで、どれも取り止めや設置見合わせなどが検討されるような社会だ。こういった地域活動が無くなれば隣人間のコミュニケーションは当然薄くなり、隣人不信が増幅され、トラブルが増え、最悪暴力沙汰にも繋がるかもしれない。誰かが迷惑と言って地域活動を辞めた事によって逆に隣人トラブルが増えるのならば、神経質な人に我慢してもらう方がよっぽどコミュニティ全体の為になるとも思える。「-は迷惑」と声高に主張する人々(の全てがそうだとは言えないが)には、某国大統領のような○○ファースト的な考え方、言い換えれば”自分さえ良ければよい、他人は知らない”という思考があるのだろう。
5/16のMXテレビ・モーニングCROSSで「ホタル族被害者の会結成 ベランダ喫煙の禁止を目指す」という事案を紹介していた。要するに”隣人にベランダで煙草を吸われると、臭いが漂ってきたり洗濯物に煙がついたり、漂ってきた煙によって受動喫煙させられるので、法整備して禁止することを目指す”という、近隣住宅受動喫煙被害者の会という団体が組織されたという話だ。番組では集合住宅を想定し、ベランダと表現しているが、団体では集合住宅だけでなく戸建ての庭も想定しているようだ。
自分は既に5年以上煙草を吸っていない元喫煙者だ。今では煙草の煙は無いに越したことはないと感じている。しかし彼らは「-は迷惑」と声高に主張し過ぎる人達に見えてならない。戸建ての庭より集合住宅のベランダの方が、この問題のポイントをより明確に出来ると思うので、ベランダに限定して話すことにする。まず、ベランダというのは部屋の延長上にある個人的なスペースであると自分は考える。その個人的なスペースで煙草を吸う自由を法規制しようなんて考え方は、受動喫煙防止という大義名分をもってしても、過剰な権利の主張だと思う。まず彼らが主張するような煙が風によって運ばれてくるという懸念についてだが、自分は「嫌なら窓を閉めればいい」とも思う。勿論彼らの隣人がベランダで、数人が押し込められた狭い喫煙所中のような量の煙を1日中出し続けているなら「嫌なら窓を閉めればいい」では済まないかもしれない。しかし多くのケースでそんなことは無いだろう。また洗濯物に煙や臭いがつくことへの懸念も同様だ。洗濯物のそばで1本でも煙草が吸われれば臭いがつくなんて考え方は、自分には病的な潔癖症に思える。何故なら花粉やPM2.5、排気ガスなど煙草の煙以外にも外気中には様々なものが漂っている。「嫌なら室内に干せ」としか思えない。
こんな観点からベランダや庭での喫煙を嫌悪し「迷惑だ」という人々は、盆踊りや夏祭り、除夜の鐘、保育園、公園で遊ぶ子供などをうるさくて迷惑と言う人と同種の、それこそ迷惑な人達だと感じる。ベランダや庭での喫煙が法的に制限される必要性があるのなら、究極的には喫煙室についている一般的なただの換気扇では、ただ煙を外気に放出するだけなので、厳格な空気正常装置の用意されていない喫煙室での喫煙も規制される必要性が出てきそうだ。それどころか多くの飲食店が出す調理で生じる煙・臭いも同じように規制されるべきとなるかもしれない。心の底から煙草の害を考えているなら、ベランダ禁煙法制化なんて馬鹿馬鹿しく、そして差別的で中途半端なことを目指すのではなく、国内煙草販売禁止・全面禁煙を目指すほうがよっぽど健全だろう。ただ、全面禁止すれば覚せい剤などと同様に反社会勢力の資金減になったり、余計な犯罪者を増やすことにもなるという弊害もあることを理解したほうが良い。
一方で番組ではコメンテーター達が「自分の住んでいるマンションは既にベランダ禁煙が、入居時に提示される条件に含まれている」という話をしていた。これについては煙草の煙に少しも関わりたくない神経質な人の権利を認める為の分煙施策として正しいと思う。勿論これまでにそのような約定がない集合住宅で、喫煙者住民の権利を無視し、一方的に新しく規制をつくることは問題だが、新しく出来た建物や新しく入居する住民に対してそのような条件を提示することはトラブルを防ぐ為には必要なのかもしれない。
受動喫煙対策は確実に必要だ。しかし自分さえ良ければよいという考え方の人々や、短絡的に「-は迷惑」と言えば何でも思い通りになると考えているような人に対策内容を左右され、一方の利益だけに偏ることはある意味で危険なことだ。受動喫煙させられない権利もあれば、喫煙する権利も日本では認められている。同じように平穏に生活する権利を守ることも必要だが、盆踊りや夏祭り、除夜の鐘などの地域的な行事を行う事にも文化的・社会的な意義がある。音・臭い・視覚的に見えるものなどに神経質になりすぎる風潮、それを正当化する風潮が社会に蔓延しているような気がする。空港の騒音のように1日中ひっきりなしに続く刺激を「迷惑だ」と表現することは適当かもしれない。だが1日の内のある特定の時間だけの音や臭い、若しくは年に数日の行事、1日中ひっきりなしでも子供の声などを「迷惑だ」という表現で正当化できるという考え方は間違いだ。一方的な視点でしか物事を捉えられない人が今より増えれば、その先にあるのは、住みやすい社会でなく、他人のことを思いやることが出来ない確実住みづらい殺伐とした社会だ。他人からの刺激が耐えられないほど気になるなら、人里離れた山奥にでも住んだほうが良いのではないか。人口密集地ではお互いに思いやり、ある程度我慢することが出来ないと、そこでの生活に向かないと思う。”お互いに”というのが最も重要なポイントである。音や臭いなどについて他人に影響を与えすぎないように注意することも必要だが、だからといって他人が出す音や臭いについて過剰に制限しようとすることが認められるわけではない。-されない権利もあれば、ーする自由も存在する。