イランでも大統領選挙があるらしく、あるテレビ番組の、現職のロウハニ氏を紹介するVTRに彼が国連で「核のない世界を目指そう」と訴える姿があった。イランは第二次大戦後、親米独裁帝政への不満のから1979年に革命が起こり、それ以降は反米感情が強い国だ。しかし現職のロウハニ氏は穏健派で知られ、アメリカとの関係改善を進めた人物だ。だがイランは現在の北朝鮮と同様に、十数年前に核開発で西側諸国を中心に猛烈に批判され制裁を受けた国でもある。核開発を行う国の大統領が「核なき世界」を望むというなんとも矛盾を感じる話でもある。当然同じ矛盾を、世界で最も強大な軍事力を持ち、世界で1,2を争う核戦力を保有するアメリカの前大統領が核廃絶を訴えた時にも感じた。
核廃絶したいと表向きは表現するが、矛盾したような状況に陥ってしまう理由の一つに、抑止論という考え方があり、大雑把に言えば、武力や核をお互いが持つことで全面的な武力衝突を避けることに繋がる、という考え方だ。個人的にはとても罪深い思考だと感じるが、一方でお互いに武器を持たないという協定を結んでも、相手が確実に信用できなければ隠し持っていることを疑わずにはいられないだろうし、そんな考え方が生まれるのも仕方の無いこととも思える。
アメリカの人気ドラマにウォーキングデッドという作品がある。全米(全世界かもしれないがまだ劇中ではそこまで明らかにされていない)で死者がゾンビ化し、社会的なインフラが軒並み全滅した、日本のマンガで言えば北斗の拳のような世界で主人公たちが生き抜いていく姿を描く作品だ。現在7期まで公開されている。単なるゾンビ系の娯楽作品として楽しむことも出来るが、自分はこのドラマを見る度に頭に抑止論がよぎる。物語の最初期では、主人公たちが現状を把握し協力しながらゾンビから逃れ、または倒し、生き抜く姿がそれこそゾンビ系作品の定番的な流れで描かれる。次第にゾンビという要素は舞台装置化し、主人公が属するグループ内での人間模様を描き始める。そこでも各個人が法律も警察もない世界で疑心暗鬼になりながら、牽制しあう様子に抑止論的なニュアンスを感じることが出来る。更にその後は主人公のグループと敵対する勢力が現れ、当初は1対1の対立で単なる抗争でしかなかったが、現在は複数のグループ間における、武力を背景にした上下関係や、グループ間の協力・裏切りなども織り交ぜられ、それこそ抑止論を背景とした現在の世界各国の関係性の縮図のような構造が語られている。
ドラマはドラマで、現実と比較するべきではないのかもしれないが、人間の心理を上手く描いているとも思える。物語を見ていると抑止論の危険性みたいなものを自分は感じてしまう。結局信頼関係にない相手との間に抑止論による均衡を生み出そうとしても、お互いに武装を際限なく求めることが繰り広げられるだろうし、バランスが崩れれば最悪の結果を招きかねないとも思える。アメリカは世界でも稀に見る銃の所持を強く規制しない先進国だが、銃の所持を認めることも、抑止論と無関係ではないだろう。お互いに銃を持つことで暴力に対する防衛も出来るという考え方があるようだが、銃による死者の多さを考えれば、自分にはその考え方が有効だとは思えない。結局国家間の武力・核戦力保持による抑止論でも同じことが言えると感じる。
日本は太平洋戦争に負け、戦争を放棄・戦力の不保持を憲法に定めた唯一の国になった。この憲法が定められたのには我が国が日中戦争や太平洋戦争に向かった背景に、軍部の暴走とも言える事態があったこと、それらの戦争により多くの国民の命が国家の為という大義名分の下で失われていったことなどがあると思う。戦争終結当時の日本人が軍に対して神経質になった理由には、ドイツで戦争を主導し、人種差別政策を行った主体がナチ党だったのと同じ様に、日本で戦争を主導したのが軍部だったことにあるだろう。ドイツでナチ的思想・教育が今でも強く嫌悪されるのと似た理由で、日本では戦前の軍国主義的な思想・教育が嫌悪された、そして今でもされているのだろう。しかし戦争の放棄・戦力の不保持が憲法に定められた理由はそれだけではない。どんな大義名分を掲げた戦争でも結局国民にとって失うものの方が大きいということを経験したからだと思う。個人的に日本が太平洋戦争に向かった大元の理由には、明治以降の近代化の流れもそうだが、日露戦争で勝利したにも関わらずその代償を得られなかったという思いが、政府よりも国民に強く残ったことがあるのだと思う。その悔しいという思いが次こそはという動機に繋がり、何かを得る為、欧米の植民地政策に対抗する為に戦争を否定せず、最終的に太平洋戦争に至ったのだと考える。しかしその結果は無条件降伏での敗戦だった。そこで日本人は戦争は勝っても(日露戦争)負けても(太平洋戦争)得るものは少ないと気づいたんじゃないかと思う。
現在在る北朝鮮の脅威と対峙する為には、憲法9条を改正し自衛隊を軍として正常化する必要があるという意見がある。確かに抑止論が完全に否定出来ない以上、その話は完全に間違っているとも言えないが、それは一方で、過去の戦争でその非生産性を嫌というほど味わった先人の経験を無視しているようでもある。太平洋戦争だって、先手必勝が最大の防御という自己防衛的な考えの下で真珠湾攻撃を行って引き起こされた。自分には現在の自衛隊が憲法9条に合致するか否かという議論に決着をつけずに自衛隊を維持することが、現状における最良の選択だと思える。何故なら、9条を改め自衛隊を軍隊としてしまえば、直ぐにではないにしろ、将来的には自国防衛の為に北朝鮮のミサイルが発射される前にその基地を攻撃することを容認するというような考え方が生まれかねないと考えるからだ。抑止論という観点から言えば、完全にではないが自衛隊も尖閣諸島周辺における中国の牽制を抑えるという役割は果たしている。もし自衛隊を軍隊として正常化したとしても、究極的には完全という状態になることはない。何事においても絶対はありえない。現状懸念される危機に対応する必要は当然あるが、過去の経験をそれに役立て、同じ過ちを繰り返さない為の努力も必要だと思う。
北朝鮮の脅威に対抗する為には武力行使も否定してはならないという論調を語る人のうち、何パーセントの人が自分が兵士として戦争に行くことを想定し、覚悟しているのかを聞いてみたい。国や家族の為に戦うなんて言えば勇ましく聞こえるかもしれないが、もしその戦争であなたが死んだら、それでも家族は喜ぶだろうか。あなたが死ぬことで家族が不幸になることはあっても、幸せになることは決してないだろう。要するに戦争になること覚悟することよりも、戦争にならないように最大の努力をすることのほうがよっぽど重要だ。どんな考えを持つことも、どんな主張をすることも各個人の自由だが、戦争になるということはそれ自体が最悪の結果だということは大前提として考慮した上で、考え、主張するようにしてもらいたい。