ニューヨーク有数の観光スポットでもあるタイムズスクエアで、自動車が歩道に突っ込み死傷者が出る事件が起きた。昨年来欧州各国で起きているいくつかの同じような事件を前提に、今回のニューヨークの件は”テロの可能性は薄い”という見解を多くのメディアが報じていた。死傷者の数などに差はあるだろうが、欧州の同じような事件のほとんどはテロと報じられ、ニューヨークの件はテロではないというニュアンスで語られる。しかし起きた事件の内容に大きな差はないと自分は思う。日本でも数年前に秋葉原でトラックによる殺傷事件が起きているがテロとは言われなかった。だが内容は同じようなものだし、近頃報道されるケースが増えている高齢者によるペダルの踏み間違いで起こる、歩道・店舗などへの暴走事故も事件の内容はとても似ている。テロとそうでないものの差は一体何なのだろう。
この文章を書き始める前にテロについて辞書を引こうかとも思ったが、敢えて辞書を引くのをやめた。個人的にテロと言われると”政治的宗教的な思想を実現する為に行われる暴力行為”というイメージがある。例えば飛行機を乗っ取りビルに突っ込んだあの事件や、中東で多く起こっている自動車爆弾や自爆による無差別殺人行為、中東以外でも起こっている銃の乱射による無差別殺人などが自分が想像するテロのイメージだ。当然手段が自動車で無差別に人を轢き殺すことでもテロと言えると思う。テロと言われるとまず組織的に計画され、強い信念を持って行われていると想像してしまうが、最近の欧州で起こるテロとされる事件を見ていると、必ずしも組織的ではないし強い信念は無く単なる自暴自棄なのに、それでは格好が悪いからテロ組織への共鳴という体裁をとっているケースもあるんじゃないかと感じる。だとすれば同じ自動車による無差別殺人だけ考えても、故意なのか不慮の事故なのか、計画的なのか突発的なのかなどでテロか否かを判断しているようにも思えるし、判断する側がテロと思いたいかどうかで判断されているようにも思える。
要するにテロか否かの明確な線引きが良く分からないというのが個人的な感想だ。そして恐らく多くの人がその線引きについて明確に説明できないだろう。だったらテロか否かは大して重要な要素ではないようにも思えてくる。自分を含む多くの人はテロ=怖いという漠然としたイメージがあると思う。そこからテロ対策=確実に必要という発想に繋がるだろう。ただ、前述の話を考慮するとテロ対策というのは実はかなりぼんやりとしたイメージ的な言葉なんじゃないかと思える。テロ対策と言われたら、内容を良く考える前に良いことという先入観を持ってしまっていないだろうか。そして組織的な犯罪の防止=テロ対策というイメージもあるが、テロとされている事件は必ずしも組織犯罪ではない。要するに組織犯罪を防止してもテロが無くなるわけではない。組織犯罪を防止することは、テロの抑制に繋がることは事実である。だが、完全にテロ行為が防止できるわけではない。今議論されている共謀罪はテロリストではない市民にも大きな制約を課す恐れがある。自由な権利を犠牲にするのに見合う効果のあるテロ対策なのだろうか。
現在ある北朝鮮への懸念に対して、最も恐れを感じているのは、韓国人でも米国人でもなく日本人であるという話がある。確かにキー局のワイドショーは連日その話題を煽るように特集している。確実にそうだとは思わないが、これは実際必要以上にテレビは危機感を煽っているんじゃないかと感じる時がある。テレビ局・番組の制作者にどういう意図があるかは分からないが、政府がテロの恐怖を煽りその為の対策だと必要性を主張する共謀罪について、多くのテレビ局・番組が程度の差はあれ現状のまま成立させてよいのかという疑問を呈しているが、北朝鮮による危機を必要以上に煽るのは結局共謀罪が必要だという政府の論理と似たようなことを主張しているようにも思える。この視点は見当違いである恐れも当然あるが、全く間違っているとも思えない。こういうことの積み重ねがメディア不信の要因の一つでもあり、過激な主張や所謂フェイクニュースへの共感みたいなものを育てる要素なんだろうと感じてしまう。