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すいませんとありがとう


 「すいません」という言葉を日本人は良く使う。主に謝罪の意を表す言葉だが、謝罪の意味が薄い場面でも挨拶代わりに使われたり、もはや相槌の一つのように使う人もいる。「すいません」を使うなとは言わないが、自分は「ありがとう」に置き換えられる「すいません」は「すいません」と言わず「ありがとう」と言うように心掛けている。「ありがとう」は基本的に感謝を意味し、「すいません」は基本的に謝罪を表す言葉だ。「親切にして頂いて恐縮します」というような感謝の意味合いで「すいません」が使われることは当然理解しているが、自分は謝られるより感謝されたほうが気分が良い。誰もがそう感じるわけではないかもしれないが、どちらかと言えばネガティブな「すいません」よりポジティブなニュアンスの強い「ありがとう」の方が、言う方にとっても言われる方にとってもより気分の良い言葉ではないかと思っている。


 「ありがとう」という言葉を素直に発することが出来るということは、精神的に健康だと言えると思う。しかしそんな万能に思える「ありがとう」でも、使い方によってはネガティブな印象になることもある。どんなことにも感謝を感じることは基本的には素晴らしいことだ。しかしその表現の仕方、「ありがとう」の強さを変に強調しすぎると逆に不快感を相手に与えてしまうこともある。例えば、飲食店で水を運んできた店員に”この水が無ければ死ぬところでした”という程の強いニュアンスで、真剣に「ありがとう、ありがとう」と繰り返し感謝すれば、変人扱いされることもあるだろう。若しくはわざと変に感謝を強調していると受け取られ、店員は馬鹿にされていると感じるかもしれない。これは少し極端な例だが、誰でも「ありがとう」と感謝したら、「これぐらい当然のことです」と返された経験があるだろう。それを「そんなことありません」と相手の言葉を否定する形でさらに感謝を表現することもあるだろうが、相手の言葉を否定し続ければ、たとえ感謝を表現しているつもりでも相手に不快感を与える場合がある。要するにバランス感覚が必要だということだろう。

 この「ありがとう」に関するバランス感覚は多くの人が持っているもので、ごく稀にバランス感覚を欠いた人がいるような類の話だが、他の言葉についても同じような状況かと言えば、言葉によってはバランス感覚を欠いている人が多いこともある。差別的な発言や失言のようなケースの多くは、意図的な場合も皆無ではないが、大概言葉のバランス感覚を欠いている発言だと思う。現在は注目を集めることが数値化され、単純に商業的利益に直結したり、承認欲求を充足させたりと、なにかと過激な発言がされがちな状況にあると思う。しかし言葉のバランス感覚を良く考えることを無視してはならない。自分の主張を出来るだけ在りのまま表現することは重要なことだ。しかしそれは言いたい様に好き勝手に表現するということだけでは実現できない。聞く相手がどう受け取るかを考えることも必要で、それが出来なければ結果的にあなたの主張は正確に相手に伝わらない。

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