ツイッターを眺めていると、先日起きた京都での韓国人タレントへの差別的発言の件を受けてか、
差別に対する批判があることは分かるが、”思想信条の自由””表現の自由”がわが国では認められているのだから、差別を批判する自由があるように、差別をするという思想や表現を制限するべきではない。
という主張をする人が一部に見られる。要するに差別を正当化、正当化とまでは言わなくても容認しろということだ。とんでもないことを悪びれもなく言うもんだと開いた口が塞がらない。完全に自由の意味を誤っている。もしくは自由とはどういうことか理解した上で都合よく解釈している。
自由とは思ったように好き勝手に何でもして良いということではない。あくまでも”公共の福祉反しない限り”という前提がある。簡単に言えば、他人に暴行を加えて殺すことや他人のものを不当に奪う・盗むことに自由はない。”差別も思想の一つ、また表現の一つなのだから制限されるべきではない”という主張が”思想信条の自由”や”表現の自由”の範疇に含まれるのかということだが、差別的な思想を持つことに関して、勿論、賛否両論あるだろうが、個人的には人間の内面を制限することは出来ないだろうから認めざるを得ないと思う。差別的な思想を持つこと自体だけでは他の誰かが不利益を被る恐れはそれほど高くないだろう。何よりそれを考えることさえいけないというのに無理があるし、取り締まること、考えていると証明することも非現実的だ。だが、表現の自由の範疇として、あからさまに差別をすること(を肯定すること)を公言することを認めろというのは全く別の話だと思う。まず差別という言葉が指すものは何なのかということだが、ニュートラルな使用法としての意味は区別、区分と大差ないが、ここでの差別が指すものはそれとは異なるネガティブな使用法の方である。要するにここでの差別は”偏見や先入観などをもって正当な理由もなく不利益を強制したり、弾圧したりすること”などと言えるのでないかと思う。要するに差別という概念には既に正当性がなく、差別自体が公共の福祉に反するということだろう。差別を否定的に、もしくは問題提起的に表現することは別だが、差別を肯定する表現の自由があると認めることは、他人を根拠のないことで罵倒し蔑む自由があると言っているのと等しい。極端に言えば人を傷つけたり殺したりする自由があると言っているのとも同じだ。それがどれだけ破綻した主張かを考えてもらいたい。
いじめについて、現実にいじめは子供の間だけでなく、成人の間でも根強く残っているということは事実だが、多くの日本人が”いじめをしてはいけない”という認識を持っていると思う。それは、いじめは正当な根拠のない弾圧であり、自分にそれが向けられることは断じて容認できないと多くの人が感じるからだと思う。差別を表現することを認めろということはいじめる自由を認めろと言っているのと全く同じだ。そんな乱暴な話に賛成する人がどれほどいるだろうか、特に子を持つ親(虐待をするような親は別として)なら一人もいないのではないだろうか。差別を表現する自由を認めろなどと言っていれば、いつまでたってもいじめはなくならない。
百歩譲って”京都の件は差別ではなく、正当な個人の意見の主張だった”というなら全く賛成は出来ないし、誤った考え方だと思うがまだ理解もできる。しかし”差別を表現する自由を認めろ”なんて主張は更にその何倍もレベルの低い話だ。恐らく京都の件で店も差別発言をしたとされる客も、差別的な発言があったことを認め謝意を表すということになった為、韓国に対する嫌悪感ありきで擁護をしていた人が、何とか自分の妥当性を主張する為に”差別を表現する自由を認めろ”なんてみっともない主張をもっともらしくし始めたのだと思う。しかしそんな主張をする日本人を見て、当事国である韓国・日本以外の他の国の人がどのように感じるかを考えてみて欲しい。”日本人は愚かな主張をしている”と見えるということを理解して欲しい。