ハフィントンポストが6/8に”田中将大に「英語を覚えろ」と解説者が差別発言⇒ファンが非難「MLBは世界最高の選手達たちのホーム」”という記事を掲載した。田中投手の登板中、タイムをかけコーチと通訳がマウンドへ向かった際に、解説者が「田中が通訳をつけていることを忘れていた。私はこれ(通訳のマウンド帯同)を、禁止すべきだと思う」と発言したらしい。この発言の理由を問われて更に、「(英語の)野球用語を覚えろ。すごく簡単な話だ。長時間が経っているのだから、投手コーチと投手の会話は簡単に理解できるだろう」と述べ、一部でこれらの発言は差別発言だという批判があるようだ。日本のプロ野球でも外国人選手への対応を通訳が仲介するように、メジャーリーグでも通訳の帯同は認めれられている。一連の発言について既に発言した解説者も謝罪を示している。
確かに一連の発言は英語を母国語としない自分にとっては、又は発言を受けた田中投手と同じ日本人としてはあまり気分のいいものではない。しかしそれが差別かと言われたらそれはそれで言い過ぎだとも思う。アメリカ国内の一部には白人以外の人種を見下すような、所謂白人至上主義的な思考を持つ人もいるだろうし、過激な白人至上主義ではなくてもユダヤ人・スラブ系・黒人・アジア系などを無意識的に見下していると思えるような人もいる。しかし「英語を覚えろ」、厳密には言葉の表面よりももう少し激しいニュアンスだったようにも思うが、それでも差別とするのは過剰反応であるように思う。
その理由の一つはアメリカは英語を公用語とする国だからだ。例えば英語は世界の共通語的な位置づけになっていることを理由に、英語能力が全体的に高いとは言えない日本人に対して、この件と同じようなニュアンスで日本国内で「英語を覚えろ」という発言が行われたのなら、差別的、というか他民族に対する尊重が足りないと言ってもいいと思う。しかし日本にも郷に入らば郷に従えという言葉があり、アメリカに行ったら英語でコミュニケーションが出来るように努力すべきことも間違いではない。しかし一方でプロの野球選手が万が一試合中のコミュニケーション不全で試合に負けるようなことになれば、それは好ましくない事態なのだから、英語能力に不安があるのなら通訳をつけることも不自然なこととは言えない。そんな観点で考えれば、解説者の発言は適切とは思えないが差別というのは言い過ぎである、ということになると思う。
こう書くと、この件に差別的ニュアンスを感じないのは差別に対する意識が低い証拠だ、というようなことを主張する人もいるだろうが、差別が悪いことだという一方で、全ての民族、全ての個人が全く同じ状況になって完全な平等が実現されるなんてのもありえない話で、違うことを指摘すること全てを差別とは表現できないと思う。要するに差別をなくしたい理由は他者との共生を実現する為なのに、何でもかんでも厳密に細かく差別と指摘していくと、実際には個人個人の間に違いが存在するのにそれを少しでも示唆することを躊躇うようになり、それによってわだかまり・ストレスが生まれ、逆にそれぞれの溝を深める恐れもあるという矛盾が生じかねないと思う。この記事は見出しで「英語を覚えろ」が差別発言であることを前提として表現しているが、果たしてそれは適切だろうか。田中将大に「英語を覚えろ」と解説者が差別発言は田中将大に「英語を覚えろ」と解説者が発言としても、要するに差別を入れなくても文脈上何の問題もないのだから、無闇矢鱈に差別だと煽るべきではないと個人的には思う。