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退位特例法と共謀罪で異なる検討の姿勢


 天皇陛下の退位に必要な特例法は6/9に可決成立した。特例法は将来的に強制的な譲位が起こらないように退位が必要な事情、高齢になった天皇陛下が今後も公務を続けるのが難しくなっており、国民もその気持ちを理解・共感していることに言及している。個人的には退位した天皇らの敬称などだけでなく、高齢になった天皇の退位が出来るのか否かの議論もナンセンス(出来て当然)だと感じていたが、政治的な理由で天皇の地位が利用された過去や、立憲君主制という制度の下ではこのような厳密な議論も必要だということも理解できる。特例法という方法が適切だったのか、皇室典範自体の変更が必要だったのかと問われれば、自分は後者の方が適切だったように思っているが、それはそれとして”将来的に強制的な譲位が起こらないように”ということを考慮した結果、特例法という手段で退位を実現したことは評価できると感じる。



 この特例法を成立させた主体は国会や政府だ。天皇退位の特例法については国会も政府も、今後不適切な運用が権力によってなされる恐れについて、かなり石橋を叩くような姿勢を見せているのにもかかわらず、共謀罪法案については政府や捜査機関が恣意的に運用する恐れについて、そんなことは起こらないという権力の性善性を基準に成立させようとしていることは一体どういうことなのか。戦前に治安維持法が現在の共謀罪と同じような説明の下で成立し、その後どんどん適応範囲が広げられていった過去は考慮するほどの事案ではないということなのか。一方では過去の経験を重視しているのに、一方では軽視するということでは、結局彼らは都合の良い判断材料を並べているに過ぎず、結果在りきでの議論という側面が強すぎるように思える。

 更に今大きな問題になっている加計学園の件について、文書の内容の真偽については別の話だが、その文書自体を政府側が隠そうとしていた疑いがかなり高まっていることなどを考えれば、権力の性善性に疑いを抱かせるような現政府が、市民の権利を侵すことが懸念される制度を、権力の性善性を前提に実現しようとしていることにも大きな矛盾を感じる。もし権力の性善性には疑いがなく、共謀罪を権力の性善性を前提に説明するなら、天皇の退位についても将来的に強制的な譲位が起こらないようになんて事を馬鹿真面目に検討する必要性は低く、特例法なんて形式ではなく皇室典範にきっぱりと明記すればよいと思う。一方は恣意的な運用の恐れが高く、一方は低いという判断が絶対的にありえないことではないかもしれないが、自分にはどうにも都合の良い説明をしているように思えてならない。

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