「一律65歳定年 導入を検討」6/12、MXテレビ・モーニングCROSSで扱われた話題の一つだ。番組によると安倍政権が2015年9月に打ち出した一億層活躍社会の実現の為に当時検討した施策の1つらしい。高年齢層の生産性向上を狙った施策だったが経済界の反対で断念したそうだ。しかし労働力不足の深刻さが更に増す中で、政府は現在再検討に向けた準備をしているとのことだ。個人的には一律というのにやや違和感を感じるものの、高齢化の進行を考えれば全くおかしな方策とも言えない。一律65歳定年導入が最も好ましいかどうかは分からないが、何かしらの方法で労働人口・生産性を維持する必要は確実にある。その為にこの類の検討をする必要はあると思う。
経済界が反対した理由は、恐らく人件費の固定化をリスクと捉えたからだと思う。だが最初にこの施策が検討された2015年時点でも既に労働力不足が深刻化する懸念は指摘されていた。どう考えても2015年以降に急に労働力不足問題が表面化したわけではない。労働力不足は問題としながら、人件費のリスクは負いたくないというのは矛盾しないのか。経営する者の立場、出資する者の立場からすれば、企業の究極的な目的は利益を最大化することだろうし、それを実現する為に人件費を減らすことも重要だというのも理解できる。しかし労働力が足りないのなら、人件費をある程度支払う必要があるのは当然のことではないだろうか。それとも自動化を進めることで人件費を抑えながら労働力不足を補うことの方をより重視しているのだろうか。
確かに日本人の人件費は世界的に見れば決して安いとは言えないし、多くの企業は日本国内だけで競争をしている訳ではないのだから、人件費を抑えて競争力を維持したいのも理解できる。その為には自動化を推進することも必要で、これまでも自動化を進めることで日本の経済は発展してきたとも言える。だが究極的に自動化を進め人件費を極限まで削減することは、短絡的に考えれば、今の制度の下では貧富の差をさらに拡大させると思える。貧富の差が生まれることは資本主義社会ではある程度は仕方がないことだが、その差が開けば開くほど付随した懸念も増える。治安・経済発展などの面でも決してプラスな材料ではない。お金がないことが引き金になる犯罪も増えるだろうし、貧富の差が教育の格差に姿を変えることでそれが加速していくことも考えられる。数十年前まで産業の自動化は、労働者の負担を減らすポジティブな部分だけが注目を集めていた。しかし現在では一部の富裕層以外自動化促進の恩恵は少ない、または受けられないかもしれないという見解もある。恩恵が少ない消費者の購買力が低下すれば、以前から懸念されている所謂産業空洞化とも相まって、国内の経済規模の縮小さえ起こるかもしれないとも感じる。
経済系の番組などで紹介される企業などを、自動化を進めることを「すごい技術」とか「労働力不足への対策」と褒めちぎる様子を良く見かけるが、本当に手放しで喜べる状況なのか個人的には疑問を感じる。たしかに少ない人材で利益を上げられるのに越したことはない。しかし労働人口が減り、その結果個人からの税収が減るのであれば、企業から税を今以上に徴収する必要があるのではないか。冒頭の件で企業の人件費リスクを嫌う姿勢を垣間見たが、企業が人件費を避けるのならばその分税を取らなければ国が成り立たなくなるように思う。企業は企業自体が維持できなければ雇用はゼロになってしまうのだから元も子もない、というような主張をしているようにも思えるが、視点を変えればそれは結局自分達が儲かれば良い、自分達さえ良ければ良いという考え方のようにも見える。それでは最終的に自分達の首を絞めることにもなりかねないと感じる。経済性を日本よりも重視し、日本よりも産業空洞化・貧富の差が拡大するアメリカ、そしてそこに誕生したアメリカ第一主義を掲げ「Make America Great Again」と叫んでいる大統領が、その傍若無人な発言・振る舞いで結局アメリカ全体の評価を下げる結果を生んでいる、要するにアメリカをグレートではない方へ向かわせていることからもそのような結末が想像出来る。