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間違えない人は存在しない


 警察官の不祥事は一向になくならない。流石に毎日と言ったら言い過ぎかもしれないが、痴漢や盗撮のようなものを含めたらかなりの頻度で報道されている。痴漢や盗撮を取るに足らないこととするわけではないが、もっと重大な事案や疑惑も結構ある。令状が発行されていないのに令状があるかのように振舞った件や、証拠にする指紋を署内で採取したのに現場で採取したかのように偽装していた件暴行を働いた疑いのある泥酔者を逮捕する際、既に制圧済みにも関わらず膝蹴りをしていた件などはどれもここ半年の間に明るみになったことだ。まだまだ疑惑の段階だが、証拠として押収した現金数千万円が署内から盗まれ内部犯行が濃厚な件や、福岡の金塊強盗事件の容疑者に警察から情報が流されていた疑いや、ジャーナリスト男性によるレイプ疑惑で警視庁の刑事部長が不当な圧力を働かせた疑いなども取り沙汰されている。犯罪者を取り締まる側の警察・警察官が犯罪に手を染めるなんてけしからんという気持ちを市民が抱くことはとても当然なことだとも思う。しかし個人的には警察官だって人間なのだから、数十万人もいればいい人も悪い人もいるのも、他の市民と同じ事でごく当然だとも思う。他の言い方をすればどんな組織も適切にあるべきことは理想だが”警察という組織、警察官と言えども完璧なものではない。間違いを犯すことは当然ある。神聖視することは間違いだし危険だ”ということではないだろうか。


 共謀罪を現在の条文で容認する人々の中には、「政府や捜査機関が恣意的な運用をするはずがない」という性善説に拠ってこれを支持する人々が居る。そもそも恣意的な運用が可能である条文自体が問題なのだが、それを無視したとして、前述のように警察官や警察組織による不適切な行為が明るみになっているにも関わらず、なぜ恣意的な運用が行われることはないと断言・判断できるのだろうか。それは単なる希望でしかない。政府についても同様で、今までどれだけの不祥事が明るみになってきただろう。民主的なプロセスで選ばれた国会議員、その中から選ばれた大臣らによって、全員ではないにしろ多くの不適切な行為が行われてきたことは事実である。戦前は治安維持法などの恣意的な運用が行われ、市民を弾圧した歴史がある。なのになぜ今後日本に誕生する政権は絶対恣意的な運用はしないと断言・判断できるのだろうか。

 それについても百歩譲って恣意的な運用は行われない可能性が強いと考えてみよう。共謀罪の議論で、法務大臣は”一般的な組織が一変し、犯罪を企てる集団になる”恐れもあるという話に捜査対象についての説明の中で言及している。それは今は恣意的な運用をしないと思われる組織が一変し、恣意的な運用を企てる集団に成り下がる恐れがあることも示唆してはいないだろうか。例えばトルコで独裁色を強めていると懸念されているエルドアン政権だって、数年前までは軍部の政治への影響を抑えるリベラルなスタンスの集団として評価されていた。もしそうなった際に誰が政府や捜査機関を捜査対象に出来るのか。我が国は一応権力が互いに監視牽制しあう三権分立を謳ってはいるが、行政権の力が強く、立法は行政に半ば隷属気味だし、司法が行政や立法を牽制出来ていると言えるかどうか怪しい。そんな状況なのに更に行政に力を与えることは果たして適切なのか。

 昨年来問題になっていた南スーダンの日報・戦闘という表現についての問題、森友学園疑惑、加計学園疑惑など、疑惑が明るみになった後も政府は問題の再調査に消極的で、一部は渋々再調査を行ってはいるが、どうも結果ありきで物事を進めるという姿勢が目立つ。6/2に前述のレイプ疑惑に関して野党が国会で再調査を求めた際も、国家公安委員長は不逮捕・不起訴という判断は適切だったのだから再調査はしないという見解を示した。時には一度出た結果を見直すことも必要で、その結果が適切ならば見直すことでさらに信憑性を高められるのに、結果の正当性を強調する理由を示しもせずに、一度出た結果だけを根拠に見直しを拒むのは何故なのだろうか。自分には共謀罪についての懸念と同様、既に権力の恣意的な運用が行われているのではないかという疑いを感じてしまう。政府与党が共謀罪が必要だと強調しているのに、様々な疑惑に対して再調査を拒む姿勢を示していることには懸念を感じざるを得ない。共謀罪の成立後、権力が共謀罪を恣意的に運用した疑惑が明るみになっても、恣意的な運用はしていないという自らの判断だけを根拠に調査を拒否する恐れがあると思えてしまう。

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