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バランスの重要性


 最近ハフィントンポストが、#だから一人が好き というタグを掲げて、キャンペーンを行っている。学校で”みんなと仲良く”を強制されたと感じた人や、体育の授業は上手くできないと馬鹿にされていると感じていた人、結婚しないことを非難されていると感じた人などが、それぞれの思いで記事を書いている。自分はこれらの記事を読んでいて、確かに社会に均質化を求める傾向があり、みんなと同じことを良しとし人と違うことを見下すような風潮があることも事実だが、別の視点で考えれば、それに対する批判の仕方によってはそんな風潮と五十歩百歩のレベルで別方向に偏るだけにも思える。個人の価値観、多様性を尊重することも当然必要だが、一方で社会生活を営む上ではある程度の協調性が必要なことも事実だ。やはりどんなことにもバランス感覚が大事だということだけは間違いない。


 まず、小学校で休み時間などに一人で教室で読書などをしていると先生にみんなと一緒に外で遊んできなさいと促され、それがまるで強制されているようで嫌だった。というようなことについてだが、個人的には昼休みに一人で教室で読書ということを全否定するつもりはないが、友達と一緒に何かをするという経験をしてみたら?と促すことは適切だと思う。読書などは家に帰ってから一人でも出来るし、そもそも学校は社会性を学ぶ場でもある。当然中には集団生活に馴染めない子も居るだろうし、日本ではあまり聞かないが、欧米では小学校の代わりに家庭学習で初等教育を賄うなんてケースもあるようだ。しかし現代の社会で山にこもった隠遁生活で一生を過ごすなんて人はごく少数だ。ということは社会性を学ぶことやコミュニケーション能力を学ぶことがある程度は必要だと思う。だから先生がみんなで遊んでこいと促すこと自体は適切で、促し方が適切だったかどうかを考えるべきだと思う。確かに頭ごなしに「やれ!」みたいな印象を与えるのは良いとは言えないかもしれない。

 次に、体育の授業は上手くできなくて苦痛だったとか、体育が嫌いで何が悪い、好きになるように強制されたくない。などのようなことについては、スポーツ庁長官が体育嫌いを減らすことを目標に掲げたことで体育だけが注目されているが、体育同様に他の教科が苦手で理解が追いつかなかったり、試験で酷い点しか取れなくて苦痛だったなんて人も同様にいるはずだ。現に自分は数学にそのような印象を持っていた。当然誰にでも得手不得手があり、ここでは体育が苦手な人が強く反発しているのだろうが、嫌だったのに体育をやらされるのは苦痛だとか、だからやらなくていいというものでもないと思う。もしそれが正しいのならどの科目についても”嫌だからやらない”が通用してしまうと思う。好きなことの能力を伸ばすことも重要だろうが、嫌いなことを努力して克服することもまた重要だと思う。

 最後に、結婚しないことを非難されるのは心外だ、というようなことについてだが、自分も結婚したいと思っていないし、当然結婚したことも今まで一度もない。そしてキッパリ誰にでも結婚するつもりはないと断言しているので、結婚しないことについて批判的な論調で絡んでくる人も滅多にいない。そんな自分の経験からこういうことを言う人は、どこかで、結婚はするべきという価値観に迎合するような姿勢があると周りに思われている、簡単に言えば、実は結婚したいんじゃないの?と思われてしまうような姿勢を見せてしまっているんじゃないかと個人的に思う。また、自分は結婚したいと思っていないが、結婚して子供を育てている人たちを尊敬する。誰も結婚せずに子供を生まなかったらどう考えても国の未来は暗い。全員が全員絶対結婚するべきとまでは言えないかもしれないが、ある程度の年齢になったら結婚して子供を育てるのが望ましいことは間違いではない。だから自分は自分のしていない、したほうが良いことをしている人たちに尊敬を感じる。そんな風に考えれば、結婚していないことを指摘されても相当厳しい言い方をされなければそこまで不快には思わない。むしろ「そうだよね、一理あるよね」とさえ感じる。

 ハフィントンポストが、#だから一人が好き というタグでキャンペーンを張り、それに前述のような記事を書く人がいるということは、社会の中の均質化を求める風潮が、強すぎる場合が少なくないということが背景にあるということは理解している。しかし何事にもバランスが必要で現状を批判する風潮だけが盛り上がり、今度は反対方向のベクトルへ偏り過ぎるなんてことは良くあることで、そうならないように気をつけなければならない。例えばアメリカではこれまでの政治家やメディアへの不信が高まった結果、今の大統領が誕生している。これまでの政治家の不適切な行いや、メディアの不適切な報道を指摘することは重要なことだったかもしれないが、あの自分を棚に上げて他を強烈に批判するだけの大統領を選んだことが適切な解決策だったとは思えない。一人でいることを見下しすことは許されないが、一人でいる事が好きだからといって、人と協調したり上手くコミュニケーションを図る努力を全くしなくてもいいということにもならないと思う。

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