ハフィントンポストによると、「ハーバード大学が、Facebookで不適切なやりとりがあったとして、今秋入学予定だった少なくとも10人の入学許可を取り消した」らしい。入学予定者ら100人が参加していたFacebook上の有志のメンバー限定グループ内で人種、児童、性などについての差別的発言を行っていた者の入学許可を取り消したようだ。この入学取り消しについて、差別を行おうとする者に断固とした態度で対応し、相応の制裁を加え差別を抑制したいという思いもあるのだろう。ただ、誰でも閲覧可能な状態ではないFacebook上の有志参加グループ内での発言は、例えば喫茶店などでの学生同士の議論とどう違うのかという見解もあり、究極的には冗談すら言えないような状況を生みかねないという主張もある。確かに差別を肯定・容認・促進するような発言自体は褒められたものではないが過度に厳密さを求めすぎると、それはそれで議論すら否定することにもなりかねない。要するに誰かが「差別だ」と主張したことについて検証することすら出来なくなってしまう恐れがあるという考え方だ。記事だけでは今回の判断の元になった発言の程度も良く分からないので、この入学取り消しが妥当なのか否かは判断しかねるが、程度が分からないからこそ様々な可能性・懸念を示す人がいるのだろう。
個人的にはハーバード大の入学取り消しは必ずしも適切だったとは思えない。何故なら、今回の対象者の差別に対する認識が確実に嫌悪すべきレベルだったとしても、入学を取り消しても彼らが差別的な認識を改めることには繋がり難いと思うからだ。確かにこの件のようなある意味見せしめ的な対応は、ハーバード大に今後入りたいと思う学生らに対しては、ある程度差別的な思考をさせない効果はあるかもしれないが、逆に「だったらハーバードなんか入りたくない」と考える学生らも居るだろう。入学取り消し処分は結局学内から差別的意識を除くことには有効かもしれないが、社会から差別的な意識を無くすことには必ずしも繋がらないと思う。大学は教育機関なのだから今回対象になった学生らを入学させた上で、差別意識を改めさせるような議論や教育を行うべきではなかったのかとも思える。要するに入学取り消しは根本的な解決策だとは思えないということだ。
例えば、差別的な発想で明らかに誰かに身体的・精神的暴力を加えたと言うのなら、制裁を受けても仕方がないとも思えるが、実際は差別を意図していないのかもしれないとも思える程度でも、少しでも差別が疑われるような発言は一切許さないというのは、それもまた息苦しい社会になりそうだ。念を押すようだが、今回の件がバランスを欠いている処分かどうかは判断しかねるが、やっぱり重要なのはバランス感覚なのだと思う。