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低い政府の現状把握力


 加計学園問題を主な議題にした閉会中審査が7/10に行われた。加計学園問題は通常国会の会期中にも議論が行われていたが、今回はその時は実現しなかった、この問題の提起を主体的に行った一人である前川・前文科事務次官の参考人招致が行われた。昨日行われた質疑・答弁の書き起こしを読んだり、複数のテレビでの報道を見る限り、前川氏の話した内容は既に明らかしていた事ばかりだし、自分には通常国会の議論から何の進展があったのかが分からなかった。野党側も決定的な証拠というか、疑惑を確信に変えるような新たな要素を示せなかったが、「丁寧な説明が必要だ」としていた政府与党側も、判断は適切だったのだから信じてくれという答弁に終始しており、それのどこを「丁寧な説明」と思っているのかは自分には分からない、というか自分には「丁寧な説明」など全くなく「根拠はないけど自分達を信用してくれ」と言っているようにしか見えなかった。

 
 萩生田氏の発言に関する文書の一つに関して、文科省は2度にわたる調査でも確認できないとしているが、前川氏は見たことがあると主張したことについて、民進党の蓮舫氏が松野文科大臣へ「また再調査すれば見つかるのではないか」と問い質した。しかし松野氏は「2回目の調査は適切な調査だったので再調査は必要ない」という姿勢を示した。文科省は最初の調査でこの問題に関する文書は一切確認できないとしていたが、複数の方向から実際に存在しているという指摘が相次いだ。松野氏は当初最初の調査も適切とし、再調査は必要ないとしていたが、それらの指摘を受けて渋々再調査を行った結果、複数の文書が見つかるという醜態を既に1回晒している。そんな人物が2回目の調査は適切だったと述べても、どれだけの人がその言葉に信憑性を感じるだろうか。しかも現政権内ではそれ以前にも実際には存在していた南スーダンの日報を破棄されているので公開できないとしたり、それについても閣外からの指摘で再調査を行ったが、その際にも隠蔽しようとする動きがあったことが明るみになっている。そのようなことも彼らの主張の信憑性の低さに拍車をかける。信頼を失うとその後本当のことを言ったとしても信じてくれる人がいなくなるという、狼少年の童話を体言している。
 今の政権与党やその支配下にある官僚たちは、文書や記録の提出を求められると「法に基づいて”適切”に処分した」というようなことをしばしば主張している。しかし、このように言った言わないのような水掛け論的な議論が多発しているのは、文書や記録を処分してしまって明確な証拠を示せないということも大きな理由になっている。ならば処分は”適切”ではないことが明らかだ。そのような問題が起きないように文書や記録で様々な過程を証明できるようにしておくことが必要ではないのか。彼らは”法に基づいて”という大義名分を持ち出すが、このような状態が起きるということは法が適切に定められていないと感じて欲しい。でなければ法の趣旨に反し都合よく解釈し悪用していると思われても仕方がない。
 
 今回の閉会中審査について、政府与党側の話が真実なのか、所謂野党側の主張が真実なのかが現時点では明確な判断が出来ないのは、多くの点でお互いの主張が真っ向から対立していること、どちらも決定的な裏づけが出来ていないことなどから明らかだ。流石に今回の閉会中審査だけで、政府与党・首相が言っていた「丁寧な説明」が尽くされたなどと思う人は政府関係者の中にもいないだろうと信じたい。しかし彼らは通常国会閉会直後に首相が「国民の指摘を真摯に受け止め、その都度丁寧に説明する必要がある」としたのに、都議選で大敗するまで閉会中審査に応じようともせず、野党らが憲法に基づき召集を要求した臨時国会についても、後ろ向きな姿勢を示していたような人たちだ。しかも都議選後に渋々閉会中審査に応じても、首相が出席できないようなタイミングでの開催を提案するような人たちだ。現時点では今後の対応について何ら前向きな姿勢を示していないどころか、自民党の国対委員長は「堂々巡りの議論が繰り返されるならこれ以上審議に応じる必要はない」という旨の発言をしている。彼は自分達には堂々巡りになっている責任がないと言いたげだ。こんな姿勢が見えるということは、もしかしたら彼らは昨日の審査だけで「丁寧な説明」が尽くされたと解釈しようとしているのかもしれない。そんな人たちが我が国の中枢にいるのだと思うと残念というか、最早情けなくすら思える。昨日の閉会中審査だけでも「丁寧な説明」しようとする姿勢は彼らには感じられないが、閉会中審査が開催されるまでの過程、憲法を無視している恐れもある臨時国会に消極的な姿勢、積極的に矢面に立とうとしない首相などもそういう印象を確実に強める。
 
 もし本当に国民の信頼を回復したいのなら、まずこのような姿勢を改めるべきで、それが出来ないなら国会で何を言おうが信頼は回復できない。結局、出来もしない、やりもしない「丁寧な説明」「反省」などの言葉を口にすることは余計に彼らの信頼性を下げている。火に油を注ぐとはこのようなことだと思う。

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