7/16のフジテレビ・さまーずの神ギ問で、「人気の小説家って卒業文集もいいこと書いてるの?」という疑問について検証していた。数人の作家が取材に応じ、小学生から高校生の頃に書いた文集を公開、それに対するコメントも述べていた。大体どの作家も文集を書いた当時の年齢の標準的な文章表現よりも上手いと思えるような表現をしていた。その手法には個人差があるし、作家を目指すことを意識していたかもマチマチだったが、彼らの殆どが、少なからずありきたりな文章にならないように当時から意識していたとコメントしていた。また、今読み返すと狙い過ぎていて恥ずかしく感じるとも述べていた。書き言葉と話し言葉は同じ日本語でも微妙に傾向が異なるものだと個人的に思っている。そして書き言葉での表現は話し言葉よりも”上手いこと言おう”とか”格好をつけよう”としてしまう傾向が強くなりがちだと思う。特に承認欲求が強い10代は、実年齢よりも大人に思われたいと思う人も多く、そのような傾向が顕著だと自分の経験上からも感じていたし、前述の検証からもそれがあながち間違いではないことを再確認した。
SNS、特にツイッターが普及して以降、とは言ってもツイッター以前は2chが、2ch登場以前は個人の自己紹介Webサイトなどが同じような役割を果たしていたのだろうから、厳密にはインターネット普及以降なのだろうが、年齢や性別などの個人的な特性を意識させずに個人の意見を広く主張することが容易になった。それはとても素晴らしいことかもしれないが、一方で承認欲求が強く実年齢よりも大人に思われたい10代、もしくは10代を終えてもそのような気持ちが衰えず実態よりも素晴らしく思われたいと強く考えている人が、主に自己満足を感じることを目的に自己顕示欲だけに偏った稚拙な主張をすることを、必要以上に生み出すことにも一役買ってしまっているようにも思う。このように感じるのは実は自分の偏見なのかもしれないが、視聴者ツイートが表示されるテレビ番組を見ていると、実際に自己顕示欲感満々のツイートや、上から目線なのに誤字脱字だらけのツイート、助詞の使い方など文法間違い、使い慣れない単語の誤用、聞き間違えたまま単語を良く調べもしないで使用、などが含まれるツイートをとても良く見かけるので、全く何の根拠もない偏見とも思えない。
ネット普及以前は前述のような自己顕示欲感満々、上から目線なのに日本語が基本的な部分でおかしい文章を書けば、誰かに注意されたり、書いた人は変な奴と敬遠さることが多かっただろう。文章でなくとも同じような主張・発言をすれば、同様に変な奴扱いされただろうから、そういった行為は慎むべきだと感じるのが自然なことだったと思う。要するにネットが無ければそういう行為が出来る人はなるべくして少数派にならざるを得なかった。どうしてネット普及と共にそのような行為が増えたのか。ネット上での振舞いがそのまま現実社会でも出てしまう人がいることも否定は出来ないが、ネット普及後も顔が見えるコミュニケーションでは、そのような行為は同様に変な奴扱いされるだろうから、実際に人に面と向かってそういった主張・発言ができる人が急に増えたわけではないと思う。多分その理由は現実社会では出会い難い少数派の変わり者が、ネット上では似たような思考をするお互いを見つけやすく、同意してくれる人の存在により「自分の主張は適切だ」と感じやすくなるからだと考えている。それが前述のような顔が見えないから過激なことを言いやすいネットの性質と相まって今のような状況を生んでいるのだろう。
昨日の投稿のように、国会議員にすらSNS上で幼稚・稚拙と言わざるを得ない投稿をする者がいるのだから、ある意味ではそういった状況が既に一般化しており、そういう社会があることを前提に生活しなければならない時代なのかもしれないが、それでも自分は”仕方がない”という言葉で片付ける気にはなれない。