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建設とその関連業界の問題点


 国立競技場の建設工事で、ある建設会社の現場監督として働いていた男性が今年3月に失踪し、長野で遺体が発見され自殺と判断されたことが明らかにされた。BuzzFeed Japanの記事によれば、男性の両親が労災を申請しているそうだ。記者会見を行った弁護士によると、極度の長時間労働、深夜勤務、徹夜が続き、自殺直前の1ヵ月で徹夜が3回もあり、夜22時以前に仕事が終わったのは5回だけだったらしい。以前、建築関連業界で現場監督をしていた自分の経験から、弁護士が述べていることは決して大袈裟な表現だとは思えない。というか現場の規模や当たり外れのようなものは勿論あるが、年に数回このような現場に当ってしまうことは確実にあった。自分の場合は国立競技場よりは遥かに規模の小さな現場が多かったが、それでも国内有数の規模のショッピングモール建設現場などでも似たような経験をしている。

 
 記事では”新国立競技場は、設計段階で計画が二転三転し、工事のスタートが非常に遅れた”という指摘があるが、建設関連業界では様々な理由で遅れることが常態化していると感じる。何故なら、施主は建設費を極力抑えたいという考えを持っているし、受注する側も受注を勝ち取る為にコストを極力抑えた計画をまず提案する。これは新国立競技場の建設費が後々膨れ上がり批判された際に、建設業界の人々が「コストは当初の提案から増えて当然」という認識を示していたことからも明らかだ。コストを抑える為や、施主が早く施設を利用できるようにして利益を少しでも増やす為に、工期も適切な余裕が持たせられない場合が多い。確かに当初の計画通りに工事が進むなら大きな問題にはならないのだろうが、例えば天候不順や、工事の途中で浮上する設計上の問題に関する仕様変更、施主と設計者のイメージの食い違いなどによる変更など、必ず様々な問題が出てくるので、計画通りに工事が進むことなど決して在り得ない。計画通りに進んでいなくとも、前述のような理由から工期が延長されるケースは殆どなく、そのしわ寄せは現場で働く職人や監督に回される。そんな状況が常態化している。大手が大元で管理している現場では、労基の目が厳しいからか、工事開始当初から殺人的とすら思えるような工事スケジュールが認められることはないが、工程の遅れが出始めて残りの工期が少なくなって切羽詰ってくると、そんな環境が黙認されたり、場合によっては公然と許可されるようになったりする。
 
 確かに計画通りに進まないことが基本だから、それを出来る限りスムーズに進めるために現場監督という仕事があるということも事実で、その為には場合によっては残業や徹夜で現場に立って調整することが必要なこともあるのは理解できる。しかしそれが常態化するような状態は決して容認できない。現場監督とは、恐らく建設関連の現場内で最も弱い立場であることが多い。職人の中にも過酷な労働時間で働く者がいるが、多くの場合彼らは働けば働くだけ金になるし、季節的な繁忙があるので働ける時には自ら無理してでも働くという意識が彼らにはあると思う。だが、現場監督は職人のように高い職能給(最近は職人の職能給もかなり抑制されてはいる)が貰えるわけでもない。さらに現場監督は現場の調整役でもあるので、最も現場にいる時間が長くなる。職人は作業別に入れ替わり立ち代り現場に携わることになるが、現場監督は作業が行われている間は基本的に現場にいなくてはならない。職人の作業が延びれば付き合わなくてはならないが、その分の残業代が出ることは自分の経験ではゼロだった。現場単位で契約する現場監督ならそれでも仕方がないとも思えるが、日給制、月給制で働いている現場監督なら時間外労働分は給与に反映されるべきだろう。大手企業ならサービス残業的な部分は少ないかもしれないが、もし給与が支払われていたとしても、決して健康的とは言えないような過酷な労働環境が、結果的にでも強制されるようなことは不適切であるとしか思えない。

 過酷な労働環境が自殺や、自殺に至らなくとも精神的な健康被害に繋がるなどの状況は確実に改善されるべきだ。最も問題なのは施主や建設会社の経済性最優先の姿勢だろう。個人的には現場労働者の時間や給与を搾取するほど企業や施主の利益が増え、利益を上げることが評価されるような状況を何とかして欲しい。また建設業界も他の業界も同じだろうが、過酷な労働環境を受け入れ耐えることが次の仕事に繋がるのだから、そうするのが当然だというような労働者側の認識にも大いに問題があると思う。個人的に人よりつらい思いをすることが美徳というような考えがなくならない限り、この国ではこの種の問題は決してなくならないように思う。

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