政府が2018年度から実施しようと検討している、学校の夏休みなど長期休暇の一部を別の時期に分散させ、学校や地域毎にそれぞれの大型連休を増やし、同時に企業でも有給休暇を取りやすくし、働く親も子供に合わせて休みを取れるようにしようという「キッズウィーク」。個人的には地域別だろうが、学校別だろうが、様々な職種の親がいるのが実態で、学校主導で連休を新たに決められてもそれに合わせて休める親がどれだけいるのか考えると、キッズウィークなる施策の効果がどれだけ思惑通り出るか甚だ疑問だ。実効性が殆どなかったのは既に明らかで、話題にすらならないプレミアムフライデーの二の舞になるような気がしてならない。そんな施策でも試すだけ試せばいいじゃないかという意見もあるだろうが、期待感の薄い施策にだって検討・準備に多額の予算・資金が必要になるのは事実で、我が国の財政にそんな余裕があるとは全く思えず、もっとマシなことを検討するのが政府や議員の仕事だろうとしか思えない。
このキッズウィークを踏まえ教員の視点で休み方を考察した記事をBuzzFeed Newsが「家族旅行で学校欠席、先生はどう思ってる? ささやかな「ズル休み」のススメ」という見出しで掲載している。記事の結論は前述した自分の見解と同じようなもので、キッズウィークなんて施策が行われても、教員が他の親のようにそこに合わせた有給を取得できるなんて全く思えない、というものだ。自分が注目したのはその結論ではなく、その説明の為に挙げられ見出しにもなっている家族旅行などのレジャーで児童が欠席することの是非についてだ。記事内ではネット上で繰り広げられるその賛否について、筆者が要約し、
「授業ではできない経験ができる」「家庭の事情がある」という賛成派、「義務教育なのにズル休みだ」「迷惑」という反対派。結局、親の価値観が分かれる問題だ
と表現している。確かに自分が小学生だった数十年前は家族旅行などで学校を休むことを悪びれずにさせる親は殆どいなかったが、それでも僅かにはそういうことがあったように記憶している。現在は価値観が多様化していることもあり、確実に当時より絶対的に肯定できないことだという認識は減っているだろうが、自分達の親世代、即ち今の子供たちの祖父母世代にはそんな考え方が根強く残っていることも事実だろう。
自分が疑問に思うのは、否定派の「義務教育なのにズル休みだ」「迷惑」というような単なる同調圧力としか思えないような判断基準だ。記事で書かれているのは筆者の要約だが、似たような感覚が彼らには確実にあると思う。まず、確かに学校での勉強がおろそかにされないことは大事なことだと思う。しかし義務教育が他のどんなことよりも優先されるべき完璧な教育ではないのは明らかだ。大体ズルとは何を指してズルなのか。「義務教育なのにズル休みだ」という人はイジメなどの問題で欠席する児童にも同じような指摘をしそうで心配になる。もっと性質が悪いのは「迷惑」という見解で、他人の子供が学校を休むことで、誰に迷惑が掛かるというのだろうか。記事で指摘されているように、学芸会での配役が決まっているのに、突然当日休まれたりすれば迷惑という主張も分かるが、恐らくここで表現されている「迷惑」は健康上の問題での欠席以外の全てに向けられているものだろう。そう考えている人に一体何が迷惑だというのかについて聞いてみたい。こういう考えの人は、例えば、経済的理由で2日に一度しかお風呂に入れない児童が同じクラスにいると「臭くて迷惑」なんて平気で言いそうで心配になる。
最近は「迷惑・不快」なんてことを主たる根拠にした批判が横行しすぎているように感じる。例えば少し前に問題化した、鳩への餌やりに関しての「迷惑・不快」という表現は、鳩が集まり過ぎて、その糞が衛生的に見過ごせないレベルで問題化しているのなら、迷惑だと言うのは理解できる。しかし、この記事のような自分が単に「迷惑・不快」と感じるから不適切だ、というような指摘は大きな勘違いだとしか言いようがない。このような指摘をする人々は、恐らく自分達は、よりよい社会を目指して善意で指摘を行っているなどと考えているのかもしれないが、実際は彼らが目指しているのは、万人にとってのよりよい社会ではなく、単に彼らだけに都合のよい社会でしかない。それは他人にとっては都合の悪い社会である恐れもあるのに、そのことを全く意識していないことに問題がある。彼らは自分は常に良い行いをしていると信じて疑わないのだろうが、傍から見れば、単に自分勝手な人間に成り下がっている場合もあることも知って欲しい。このような自分勝手な善意が時としてイジメのような状況を生んだり、長時間労働やサービス残業が暗に強制される社会を招くことに繋がっていると想像する。