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経済成長は必須なのか


 ハフィントンポストで、枝廣淳子さんが書いた「GDPが成長しつづけることは「必要」「可能」、ともに減少経済についての世論調査より」という記事を掲載している。日本の国内総生産が成長し続けられるかという質問で世論調査を行った結果、成長が必要とか可能とか答えた割合が減少したことなどから、「経済成長=給料アップ=幸せ」という価値観が変わり始めているのではないかという見解を示す記事だ。
 現在、資本主義経済を導入している国の多くは経済成長していくことを前提に予算を組んでいる。言い換えれば、成長しないと成り立たない社会がそこにあるように思える。日本の報道を見ていてもそれは顕著に現れている。自分が最も気になるのは「マイナス成長」という矛盾した言葉だ。元来、成長とは基本的にポジティブ側に変化するというニュアンスの言葉だ。例えば”都市が成長する”と言えば誰もが都市の規模が大きくなり、インフラ等が充実し、より住み易い状況になるということを想像するだろう。もし逆に都市の規模が縮小し、インフラが老朽化するなどして機能不全を露呈し始め、住み難くなることを表現する場合、”都市が悪い方に成長する”なんて回りくどい言い方をせずに”都市が衰退する”とか”都市が縮小する”という表現を用いると思う。経済のマイナス成長という表現には、成長前提で思考している人々が、”経済が衰退・縮小”と表現するとそれを人々が露骨に感じればネガティブな空気が醸成されてしまい、より衰退が促進されかねないという恐怖感を抱き、若しくは経済政策を行っている側の人間が行う施策の失敗を全面的に認めたくないが為に、曖昧というか、現実逃避というか、事実隠しというか、そんな動機で「マイナス成長」なんておかしな表現を使っているのだろうと思っている。


 
 自分は一応経営学部を卒業しているが、怠惰な学生だったので卒業に6年もかかってしまった。当然経営や経済についての知識はそれ程高くない。だから自分がこれから書くことには事実誤認が含まれる恐れが在るかもしれない。しかし自分の実感であることは確かだ。
 自分もかなり前から経済成長を前提にした社会に大きな疑問を感じていた。しかし最初に就職した会社で、毎年業績を更新していくことを目標にする理由を「業績が上がらなければ君達の給料も上がっていかない。将来子供が出来て家族が増えれば給料が今のままでは困るだろう?」と説明されて、確かにそれもそうだと妙に納得させられた。もっと大きな尺度で考えれば、社会福祉を今よりさらに充実させたり、新たな社会的なインフラを整備するには相応の資金が必要で、その為には国全体の経済が潤うことが欠かせない、要するに”経済成長が不可欠だ”ということになるだろう。確かにそのような思考も理解は出来る。ただ経済成長の仕方によっては、実現しようとしているさらに充実した社会とは反する事態が引き起こされるのではないかとも感じる。
 技術革新や構造の刷新などで実現する誰も犠牲にならない経済成長なら、当然不満を感じる人はほとんどいないと思う。しかし、そんな理想的な経済成長はなかなか実現できないと感じる。安倍政権成立後、その経済政策の効果で株価は上がり、日本経済に有利だとされる円安が実現し、最近では数字上は過去の日本で最も経済的に潤っていたバブル期を上回る状態だという報道をしばしば目にするようになった。しかし一般的な消費者の可処分所得は一向に増えていない。有効求人倍率が過去最高の水準で、人手不足が深刻だなんて言われる様な状態なのに給与は殆ど増えていないということだ。という事は単純な人手不足なんじゃなくて、安い賃金で長時間労働してくれる企業にとって都合の良い奴隷のような労働者がいなくて困っていると、経営者達が言っているだけなんじゃないかとも思える。経済全体の状況がバブル期越えの状況だろうが、一般的な消費者にしてみれば状況はリーマンショック後から大きな変化はなく、多くの人が報道で踊るそんなバブル期越えなんて表現される数字に現実感を持てないのが実情だろう。誇張された報道がなされていると感じる人もいるかもしれない。もし報道が事実を適切に表現しているのなら、経済成長は幸福の為に必要だとされてきた事の信憑性に疑いが出てくる。勿論経済成長”だけ”では足りないのであって、経済成長だけで幸福が実現するものではないという話なのかもしれないという事は理解している。しかし自分にはバブル期越えという経済状況にもかかわらず、一般消費者にその恩恵が回ってこない理由は、誰かがどこかで経済の循環を止めている、言い換えれば利益を独占しているからのように思える。
 自分が以前働いていた建設業界は、安倍政権成立後仕事は確実に増えていた。職人たちは繁忙期・閑散期で多少の差はあるものの昼夜通して複数の現場を回り、忙しくしている人が多かった。しかし忙しいのに労働単価は全く上がっておらずバブル期には程遠いという話しか聞こえてこなかった。労働単価が安くても今忙しくしておかなければ仕事が無くなった時に不安だから、という理由でおかしなレベルとしか言いようのない労働時間で働いている人も多かった。逆に言えばに単価が低いからこそ、先行きの分からない今後の為に必要以上に働いているという人が多かったということだ。そんな人手不足の状況下でも施主や元受の影響力がとても大きく、そちら側の都合による度重なる予定変更は日常茶飯事だったし、施主や元受の都合による予定変更でも、予定変更に伴うコストは関っていた業者全体で折半なんてケースも少なくなかった。自分には施主や元受けの会社などが、彼らの利益の為に末端の労働力を搾取しているようにしか見えなかった。
 
 そんな光景を目の当たりにしてから、経済成長は誰かを犠牲にして成り立っているという意識がとても強くなった。誰かが儲ける影では、必要以上の負担を強いられている誰かがいるという強い思いが自分の中に生まれた。当然搾取される側になるのは嫌だが、自分が搾取されない為に搾取する側に回るのはもっと嫌だ。そう考え始めたら働いて給料を貰うこと自体を嫌悪するようになってしまった。バブル期のように多くの消費者に経済成長の恩恵が広まっていれば、そんな感情も薄れるかとも考えたが、当時も日本の外側で労働力搾取を行っていたのだろうし、今との違いは搾取が行われる場所だけのように思えてしまった。
 前述したように、社会福祉・社会的インフラを更に充実させる為には経済的な発展が必要なことも理解できる。しかし個人的には経済成長を前提にせずに出来る施策を考える事も、今の日本がおかれた状況や、経済成長が伴う負の側面を勘案すれば、確実に必要な時期だとも思う。兎に角経済成長のポジティブな側面しか強調されていない状態には大いに疑問を感じるし、万能な特効薬的にどんな状況でも称賛されるべきこととするような主張には賛同することが出来ない。

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