ACジャパンが公開した、桃太郎のおばあさんが川で桃を拾うシーンをアレンジした、ネット上でのモラルの悪化を懸念するCMが話題になっている。おばあさんが川で桃を拾うと、「窃盗だろw」「警察に届けないの?」「子供が真似したらどうするんだ」などのコメントが、ネット上の批判的な匿名コメントを示唆するようなフォントとふきだしで表示される。その種のコメントはどんどん増え、批判とすら言えないような罵詈雑言・幼稚な誹謗中傷のような内容に変わっていく。最後は悲しそうなおばあさんにおじいさんがフォローするカットと共に「悪意ある言葉が人の心を傷つけている。声を荒らげる前に、少しだけ考えてみませんか?」メッセージが表示されるというCMだ。ネット上では様々な見解が論じられており、「寛容さのある社会になって欲しい」という賛同する意見がある一方で、「適切な批判まで萎縮させかねない」という批判的な見解もある。
個人的にはCMの訴える内容は大いに理解できるし、このような問題提起と言うか注意喚起が必要な状況が社会に蔓延しているように思える。「適切な批判まで萎縮させかねない」という話が絶対的に見当違いとまでは言えないのかもしれないが、自分は、おばあさんが川を流れてきた桃を拾う行為は、自分の所有地ではない山林での山菜取りやキノコ狩りのようなことだと考えれば「窃盗だろw」「警察に届けないの?」「子供が真似したらどうするんだ」なんて批判は見当違いの言い掛かり、言い換えれば適切な批判とは全く思えない。ということは、極端に言えばこのCMが、適切な批判も否定している恐れがあると感じるのは、それらの批判の内容や方法も適切だと考えているからではないかと思える。桃太郎のこの1シーンだけでは、桃が誰かの所有物だったのかそうではなかったのかは判別できない。だから窃盗を懸念する事自体はおかしいとは言えないが、逆に言えば誰かの桃を盗んだという事が確定していないのも事実だから、窃盗だと決め付けて罵倒する事や、その後に続けられる「早く謝ってください」「泥棒ワロタ」なんてコメントは、一方的で勝手な決めつけによる誹謗中傷である恐れが強く懸念される。それは許されるべき発言ではない。
このCMでは許されるべきではない批判が行われる状況を指して”悪意のある言葉”と懸念しているのだから、「適切な批判まで萎縮させかねない」なんて批判は自分には見当違いの解釈だと思える。絶対に誰も萎縮させないとは言い難いが、誰かを批判するのにこの程度の注意喚起で萎縮してしまうようなら、批判についてよく考えることも出来ないのだろうから、そういう人にはこのCMを見て萎縮してもらった方が(もう一度考え直してもらったほうが)いいのかもしれない。
朝日新聞によると、俳優の西田敏行さんを誹謗中傷する嘘の記事を、広告収入目当てでブログに掲載した40-60代の男女3名が偽計業務妨害で逮捕されたようだ。この件は、軽い気持ちでも不適切な表現や嘘などを広め、それによって誰かが不当な不利益を被れば、匿名性の高いネット上での行為であっても捜査が行われ、その責任を問われるということを示している。この件では被害を受けたのが人気のある俳優で、誹謗中傷記事によって彼の仕事に影響が出たということで所属事務所が訴え、名誉毀損ではなく偽計業務妨害という名目で処分が行われた。ただこれはネットに蔓延する悪意のある、もしくは無意識的な悪意に関する事例の氷山の一角でしかない。この件は確実にネット上のモラルに一石を投じることになると思うが、良く考えもせず人を傷つけるような主張をする人がこれで居なくなるなんてこともないだろう。
最初に書いたACジャパンのCMの件、次の西田さんの件もネット上で起こる・起こったことを取り上げているので、モラルの低下がネット上に限った話だと思っている人もいるだろうが実際はそんなことはないと思う。クレーム対応などの接客を行っていた経験から自分が感じるのは、顔が見えないと必要以上に強気になる人が増えたのは、決してネット普及後に限られた話ではないということだ。ネット普及以前だって電話では怒鳴りまくるのに、実際に謝罪に出向くと電話で怒鳴っていた人とは思えないような人だったりすることが、男女年齢関係なく良くあった。ネット普及以前だって近所や会社内で、気に入らない人について無責任な噂話を流すような人はそれなりに居た。要するに実質的にはネットに限らない単なるモラルの悪化が、ネットを通すことで、その性質により、さらに増幅されてしまうというだけのことだ。例えば、電車の中で妊婦の足をわざと引っ掛けようとする人や、ベビーカーを嫌悪するような人がここ数年多く指摘されるようになり、社会問題化していることは、ネット上の馬鹿げた主張に影響されてそれらの問題行動に走っている人もいるのだろうが、ネットの利用はこの問題の直接的な理由ではない。
自分の意見を主張すること自体は全く悪いことではない。憲法に定められている基本的人権で認められていることでもある。しかし自由に主張することが許される反面、行った主張に対する責任も問われるという事を忘れてはならない。その責任を認識できないなら、当然自由に主張する権利も認められないだろう。表現の自由や言論の自由を自分にだけ都合よく解釈してはならない。