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歩きスマホの定義


 今朝・8/1のMXテレビ・モーニングCROSSの視聴者投票は「あなたは歩きスマホをしていますか」だった。数年前から危険な行為だという指摘が盛り上がっている歩きスマホだが、個人的には歩きスマホという表現を使って問題を論じることは大きな誤解を生む恐れがあると感じる。歩きスマホをしているとは一体どのような状態を指すのだろうか。歩きながら

・画面を注視し操作すること
・操作を伴わない画面の注視
・注視とは言えない程度の画面の確認
・スマホを手に持つこと
・立ち止まってスマホを使うこと

咄嗟に思いつくだけでも5つの状態がある。歩きスマホの危険性が最も懸念されるのは人ごみの中で、歩きスマホをやめようと最も啓蒙しているのは都市部の鉄道会社だろう。また地方公共団体なども交通事故に巻き込まれる恐れなどを懸念して啓蒙を行っている場合がある。しかし自分は歩きスマホが一体何を指すのか明確に定義した上で行われている啓蒙は見たことがない。ただ単純に歩きスマホをやめよう的なポスターが貼られている場合が殆どだ。先月、歩きスマホをしていたとして、女性に体当たりして怪我を負わせた男が逮捕されるという事件も起きている。報道された事件で、女性が前述の5つのうちどの状態に近かったのかは定かではないが、自分も似たような体験をしたことがある。初めて訪れる地下鉄の駅で、通勤時間帯のように混雑した状況ではない構内の通路で、立ち止まって目的地への最寄出口を確認しようと画面を見ていたら、年配の男性にわざととしか思えないような勢いで肩をぶつけられた。男性の方を見ると怪訝そうな顔をしていたので、明確に口頭で歩きスマホを咎められたわけではないが、多分そう言いたいのだろうと感じた。一応もう一度言っておくが、通路は混雑状態ではなく、通路のど真ん中に立ち止まっていたわけでもないし、当然通路を塞いでいたわけでもない。


 人ごみの中で歩きながら画面を注視し積極的にスマホを操作していれば、それは所謂”歩きスマホ”と表現することに誰も疑問を感じないだろう。しかし操作を伴わない注視とは言えない程度の画面の確認などは線引きが難しい。画面を見ていて人にぶつかるようであれば、それは”歩きスマホ”と表現して差し支えないだろうが、周囲に気を配りながら地図や道順を確認するだけで、果たして控えるべき・非難されるような行為と言えるだろうか。自分にはそのように思えないが、画面を見るならまず立ち止まれという人もいるだろう。しかし人の流れのある場所では立ち止まったほうが迷惑になる場合もある。また、報道された件や、自分の体験のように邪魔にならないように立ち止まっていても、わざとぶつかってくるような、歩きスマホというかスマホ自体を毛嫌いしているような極端な認識の人もいないわけではない。そもそもスマホという道具が急速に普及したことなどで”歩きスマホ”が危険だと指摘されるが、根本的にはスマホに限った話ではなく、新聞やマンガを読みながら歩けば当然それも同様に危険だし、道案内用の地図や案内書でもそれに注視し過ぎれば同様だ。要するに歩行中にスマホに限らず手元に集中しすぎれば危険で、歩きスマホだけが悪いのではなく注意力散漫歩行がいけないのではないだろうか
 
 自分は危険だとされる”歩きスマホ”をどのように定義したらよいかを考えるには、同じような懸念が想定され、しかも徒歩よりももっと危険が大きい自動車の運転とカーナビ利用に置き換えて想像するのがよいと思う。現在多くの人が車に乗る際にカーナビを使う。例えば立ち止まってスマホの操作するのは、路肩に車を止めてカーナビを操作するのとかなり似ている。多くのカーナビメーカーが運転中に画面を注視しないようにと啓蒙しているように、歩いている状態でのスマホ利用も、たとえ操作を伴わなくても周囲に気を配れなくなる程スマホに集中してはならないと思う。逆に操作をするとしても、それがカーオーディオのボリューム調節だとか、エアコンの切り替えなどと同じような程度、スマホの地図確認で言えば、スクロールさせる・縮尺を変える程度なら歩きながらでも大きな問題はないと感じる。高速道路を走っている時に、たとえ走行する車の量が多くても、エアコン操作の為にわざわざ路側帯に車を止める人はいないだろう。というか、それを行うほうがかえって危険だ。

 どうも新しいものが出てくると積極的に利用しようとしない保守的な人々、特に年配者に多いように感じるが、そのような種類の人々は知識のなさによる偏見や、これはあくまで自分の個人的な感覚だが、その道具についていけていない劣等感なのか、極端なことを言い始めがちだ。
 日本では公共交通機関内では携帯電話での通話は控えるというのがマナーだとされているが、これは決して世界共通の感覚ではない。電話の利用を迷惑と感じない国は結構ある。個人的な感覚では、確かに大音量で着信音を響かせたり、電話は必要以上に大きな声で会話しがちで、そのような場合に迷惑と感じられることはある程度理解する。しかし一緒に乗っている人との会話は、常識的な声量であれば迷惑だなんて言われないし、誰もが迷惑だと言われる筋合いはないと感じているのに、同じ事を携帯電話を使って行うと迷惑だなんて感覚は、自分には理解できず日本の携帯電話での通話に関するマナーは滑稽だと感じる。これも結局、当時新しい道具であった携帯電話に対する過剰な拒否反応に影響された”歩きスマホ”の拡大解釈と同じようなものだと感じる。確かに携帯電話普及当初は、人ごみの中での携帯電話の利用は、その電波がペースメーカーなどに悪影響を与える恐れなども懸念されていた。当時は通話機能しかなかったのでそれを理由に通話自体が悪いとされたとも考えられる。現に当時は「電源をお切りください」という車内アナウンスも行われおり、通話=マナー違反の背景には電波に対する懸念も実際にあったのだろう。しかし現在は電波の影響もある程度研究が進み、影響が及ぶ範囲が限定的であることも分かり車内アナウンスも変化している。電源を切れと言うのは優先席付近に限定している。しかし他の場所でも”マナーモードを設定した上で通話はお控え下さい”などと言っている。マナーモードは理解できるが、通話を控える必要は別にないのではないだろうか。通話を控えろというなら、”車内での会話はお控え下さい”というマナーも啓蒙するべきだ。当然馬鹿馬鹿しいからそんなことをしようという鉄道会社もないだろうし、誰も従わないだろう。なのに携帯電話での通話を控えろというのが滑稽だとは思わない感覚がとても興味深い。
 
 歩きスマホについて、多くの人がそれぞれの頭で、周囲に危害を加えないようにするには、どこまでが許容範囲で、どこからが控えるべき行為なのかを考えることが重要なのだろう。しかし必ず極端な判断をする人はいなくならないし、現に傷害事件に発展する事案も起きている。ならば啓蒙を行う側ももう少し何が良くて何が悪いのかについての意思表示をするべきなのかもしれない。

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