JR東日本の寝台列車・トランスイート四季島が8/13、新潟県内を走行中に、酒に酔って誤って線路内に入り込んだとみられる男性と衝突する人身事故が起きたそうだ。今朝のMXテレビ・モーニングCROSSでもこの件を紹介していた。この件に関してこの日のコメンテーターを務めていた中谷彰宏氏は「普段都会にいると踏切ってあんまりないけど、日本中は踏み切りだらけだし、露出している線路もいっぱいある。そこの安全対策ってのはすごい大事」という見解を示し、同じくコメンテーターの三輪記子氏も「ほんとそう思います」、MCの堀潤氏も「すごく性善説ですよね鉄道のインフラって。ホームとかにしても」と中谷氏の見解に同意するという姿勢だった。
中谷氏のコメントから彼の言いたいことをもっと詳細に想像すれば、都会では踏み切りが立体交差化されている箇所も多く、多くの線路は柵などで隣接地と区切られているなど接触事故対策がなされていることが多いが、都市部以外ではそのような対策がされていることの方が少ないので、都市部で行われているような対策を全国的に推進するべきだ、ということなのだろう。更に堀潤氏は、線路や踏み切りだけでなく、駅のホームなども同様で、線路内に物理的に侵入し難くするなどの対策がもっと必要だ、と付け加えた形だろう。彼らの主張はとても率直でそれが実現することは理想的なことだと自分も思う。しかしそのような対策にかかる負担は一体誰が担うのだろう。確かに大都市圏に乗り入れている鉄道会社にはそのような余裕があるだろうし、乗車人数の多さ、沿線で活動する住民も多さも想像出来るので、その分事故発生の割合も増えるだろうから、相応の予防対策を行う必要性が高いと思える。しかし大都市圏から外れれば外れるほど、鉄道会社は過疎化などによる乗客減を背景に財政事情が苦しいところがほとんどだろう。だから都市部と同様の対応が実質的に出来ない状況にあるだろうし、沿線で活動する住民も相応に少ないのに、都市部レベルでの対策が果たして本当に必要だろうか。都市部から離れれば離れるほど路線の線路長は長くなるだろうから、例えば線路に柵を設けるなら、場合によっては都市部よりも多くの金銭的負担が必要になるだろう。しかし周辺住民の少なさや運行本数の少なさから事故発生確立は都市部より格段に低いと想定できる。このように考えると、中谷氏らが主張する都市部と同基準の対策を地方にも求めるということはバランス感覚に欠けているとも思える。
確かに中谷氏も三輪氏も堀氏も、明確に都市部と同じ対策をしろと言っているわけではないし、自分も全く対策が必要ないと思っているわけでもない。しかし自分には、彼らの主張は都市部に居住する者の理想論を一方的に押し付けようとしているように見えてしまった。ただでさえ地方の鉄道会社は、過疎化・自動車の普及によって経営的に厳しい状況に立たされているのに、都市部の鉄道会社に慣れた都市部住民の感覚で、全国の鉄道会社に都市部同様の安全対策を行うべきとするのはあまりも酷な話だ。
この件で線路内に侵入したのは、まだ推定の段階だが酒に酔った男性であり、例えば、彼が寝込んでいたのが線路でなく道路でも、自動車に轢かれる死亡事故が起きてしまったかもしれない。しかしそんなケースだったら全国的に報道されるようなこともなかっただろうし、酔っ払いが道路に入れなくなるようにする対策が必要だ、なんて見解が示されることもないだろう。恐らく酔っ払って寝ていたほうも悪いよね、轢いてしまった運転者も気の毒だというニュアンスもある程度示されたと思う。そんな風に考えると、モーニングCROSSのコメンテーター陣や堀潤氏の鉄道の安全対策に対する見解は、部外者のやや短絡的な視点でしかないように感じられた。
自分は最近都市部の鉄道で設置が進むホームドアなども過剰な安全対策であると感じている。目の不自由な人の為や、ベビーカー、車椅子などがホームの傾斜によって線路に転落してしまう事故、混雑したホーム上での列車との接触事故、ホームから線路へ故意に降りる人の存在を考えると、全く必要ないとか、設置するべきではないなんて考えることは確実に出来ない。そしてホームドアはこれまでになかった鉄道設備の進化と捉えることも出来なくはないが、鉄道が誕生して以来ホームドアなんて設備がない駅のほうが確実に多く、それが理由で何か運行に深刻な影響が出る程の問題が継続的にあったわけでもない。そう考えると何故今必要性が叫ばれているのかにはやや疑問を感じる。目の不自由な人やベビーカー・車椅子の事故への対応は周囲の人々が注意を払うべきという社会的な意識が醸成されればある程度対処が出来るだろうし、線路内への侵入やホーム上での列車との接触事故も、適切な認識の啓蒙で対処出来ると考える。このような考え方が堀氏の指摘する性善説に基づいているということなのかもしれない。しかし、性善説が通用しなくなってきているから、設備が必要だというのもどこか虚しい。確かに政治家や警察など権力に対して性善説で対処することは大きな間違いかもしれないが、社会全体に関してはある程度の性善説に基づかなければ発展はないだろうし、維持することも出来ないと思う。堀潤氏は”何事も性善説に基づくべきではない”と言っているというのは言い過ぎなのかもしれないが、性善説を否定しすぎることは必要以上の規制を生むことになってしまうような気がする。それは果たして居心地のよい社会の実現につながるだろうか。自分にはそうは思えず、性善性をある程度は信頼できるような社会の構築や啓蒙・教育も重要だと考える。それは結局鉄道の安全対策にも繋がるのではないだろうか。