昨日・8/15は終戦の日だ。ネット上などを中心に、8/15は終戦の日ではなく正確には”敗戦の日”だという主張を今年は特に目にするように思う。それは恐らく昨今、日本が日中戦争や太平洋戦争で実質的には他国・他地域を侵略したという事実や、指導者達が国家ぐるみで国民や支配地住民に無謀な戦争へ従事することを強制したことなどにはあまり目を向けず、当時の世界的な情勢の中で日本が戦争に向かってしまったのはある意味で仕方がなかったとか、太平洋戦争後アジア諸国が植民地支配から脱却し独立を始めたことを強調し、日本が太平洋戦争を起こし米英と戦ったことがそれを後押ししたという部分ばかりに注目しようとする風潮、言い換えれば、日中戦争から太平洋戦争にかけての状況の都合の悪い部分には目を覆い、それを必要以上に美化しようとする思考が一部で広がっていることに対するカウンターなのだろう。個人的には終戦の日でも敗戦の日でも、表現がどちらだろうが大した差は感じない。敗戦したから戦争が終わったのだろうし、戦争に負けたと認めたから終戦が実現したとも言えるだろう。大事なことは表現ではなく、約70年前の戦争について、出来るだけ在りのままに認識し、我が国が同じ過ちを繰り返さないように努力することを忘れてはいけないし、その為には当然自分にとって当時の都合のよい部分だけに目を向け、必要以上に戦争に関して美化するようなことをしてはいけない。
朝日新聞によると、安倍首相は政府主催の全国戦没者追悼式で、
天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、全国戦没者追悼式を、ここに挙行致します。先の大戦において三百万余の人々が、祖国を想い、家族の行く末を案じながら、苛烈を極めた戦場に倒れ、戦禍に遭われ、あるいは戦後遠い異郷の地で命を落とされました。いま、その御霊の御前にあって、御霊安かれと心よりお祈り申し上げます。
いま、私たちが享受している平和と繁栄は、かけがえのない命を捧げられた皆様の尊い犠牲の上に築かれたものであります。私たちはそのことを、ひとときも忘れることはありません。改めて衷心より、敬意と感謝の念を捧げます。
戦争の惨禍を二度と繰り返してはならない。
戦後、我が国は一貫して戦争を憎み、平和を重んずる国として、ただひたすらに歩んでまいりました。そして、世界の平和と繁栄に力を尽くしてきました。私たちは歴史と謙虚に向き合いながら、どのような時代であっても、この不動の方針を貫いてまいります。
未だ争いが絶えることのない世界にあって、我が国は争いの温床ともなる貧困の問題をはじめ、様々な課題に真摯に取り組むことにより、世界の平和と繁栄に貢献してまいります。
そして今を生きる世代、明日を生きる世代のため、希望に満ちた明るい未来を切り拓いていく。そのことに全力を尽くしてまいります。
終わりに、いま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様にはご多幸を、心よりお祈りし式辞といたします。
と述べたそうだ。一方でハフィントンポストによると、天皇陛下は、
本日、戦没者を追悼し、平和を記念する日にあたり、全国戦没者追悼式に臨み、先の大戦においてかけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
終戦以来既に72年。国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げらましたが、苦難に満ちた往時を偲ぶ時、感慨は今なお尽きることはありません。
ここに過去を省み、深い反省とともに、今後戦争の惨禍が繰り返されないことを切に願い、全国民とともに、戦陣に散り、惨禍に倒れた人々に対して、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の発展を祈ります。
と述べたそうだ。自分は二人のスピーチにとても大きな差を感じた。それは安倍首相は殆ど過去への反省を示していないのに対して、天皇陛下は過去への反省を色濃く滲ませていることだ。確かに受け止め方によっては、安倍首相は過去から目を背けているわけではなく、より未来を重視した視点でスピーチを行ったのだとも考えられるかもしれないし、戦後既に70年経っていることを考えれば、そのような姿勢が重視される時期でもあるようにも思える。過去への反省に関する言葉を天皇陛下が述べることを想定し、自分は未来志向でスピーチしようと考えた、つまり結果的な役割分担が行われたと考えることも出来るのかもしれない。しかし、これまでの彼の政治家としての姿勢、特に彼が示す戦争感のようなものを勘案すると、彼は過去を適切に評価することをせずに、都合よく切り取って解釈している為にそのようなスピーチになっていると思えてならない。要するに前述のように肯定的に彼のスピーチを受け止めることは自分にとっては難しい。
朝日新聞の記事に対して「既に戦争の加害責任について、安倍首相は2015年・戦後70年の安倍談話で区切りをつけているから、今更再びそのようなことに触れる必要はない」という旨のコメントを投稿している人がいる。確かに自分も他国との関係において日本は一定の加害責任を認め概ねその種の問題は解決していると考えてはいる。だが日本が再び同じ過ちを繰り返さない為には、これからもずっと過去に我が国が犯した過ちを忘れるわけにはいかないし、その為には毎年8/15を節目とし、そのことについて考える必要があるだろう。要するに他国に向けてではなく自戒の為に、または日本がそれを忘れていないと他国に対してだけではなく国民にも示す為には、それについて国のトップは毎年触れる必要があるのではないかと考える。
広島に原爆投下された日・8/6の投稿でも触れたが、当事者として戦争にかかわった世代は確実に減っている。彼らは戦争は二度とするべきではないとしながらも、どこか戦争を美化するような表現をする人も多くいた。今の30代から50代の世代はそのような話を直接彼らから聞かされた世代だろう。個人的には、当事者世代は想像を絶するような厳しい状況置かれ、望もうが望むまいが戦争にかかわらないという選択をすることは絶望的な状況だっただろうから、自分達が戦時中にしたこと、置かれた状況を美化しなければ精神的に疲弊してしまうような状態だったとも想像できる。だから彼らがある程度戦争について美化した表現をすることはある意味仕方がないとも思う。しかしそれを聞いて育った世代は美化された点にばかり注目してはならない。当事者ではないのだから、彼らのような壮絶な体験が下敷きにない。だから実際に何があったのかについて、一つの側面だけに注目するのではなく、出来るだけ在りのままを知る必要がある。
例えば、当時の青年達が家族の為に戦って死んでいったという側面ばかりを強調する映画や小説などが、ここ数年注目を集めている。勿論それらを全否定するつもりはない。そのような作品にも考えさせられる点は当然ある。しかしそれらは戦争について最も注目するべき点から目を背けさせる恐れがある、と個人的に強く思う。そのような作品に注目することを全否定はしない。個人的には不謹慎な気がして全然好きにはなれないが、戦争に使用された兵器を所謂美少女キャラなどと融合させたアニメやマンガ・ゲームを愛好しても構わない。自分だって、虚構の世界ではあるが、戦争を強く意識して描かれた日本で最も人気があるロボットアニメが好きだ。しかしそれらを愛好するなら、一方で過去の戦争によってどんな事態が引き起こされたのかにも注目し、将来再び同じ過ちが繰り返されないように細心の注意を払うようにする努力もして欲しい。
日本の70年前の戦争での加害責任、言い換えれば過去の過ちを振り返らなくて良くなるのは、そんなことは絶対あってはならないが、その時の過ちが霞んでしまうような同程度以上の過ちを再び犯した時だろう。そんなことが起きないように私達は100年経とうが200年経とうが、出来る限り過去を振り返る事について努力をするべきだ。