8/12にアメリカ・バージニア州で人種差別的な思考を否定しない、悪く言えば白人至上主義を声高に主張する複数の団体が「Unite the Right」と題して、南北戦争で南軍の司令官を務めたリー将軍の銅像の撤去計画への抗議を目的の一つとした集会を行った。ハフィントンポストの記事によれば、現場では「白人の命こそ大切だ(white lives matter)」などのあからさまな差別的スローガンを唱えながらデモを繰り広げたそうだ。当日は人種差別に反対する人々も、彼らへの抗議の為に集まっており2つの勢力の間で激しい衝突が起きて、反人種差別を訴える側の人々に車が突っ込み、1人が死亡、負傷者も多数出るという事態に発展した。
Buzzfeed Japanによると、この件についてバージニア州知事は記者会見で「私たちのメッセージは簡単でシンプルです。家に帰れ。この偉大なる州は、あなた達を望んでいません。恥を知りなさい。あなた達は愛国主義者を装っていますが、あなた達は決して愛国主義者ではない」と述べたそうだが、ハフィントンポストによると同日トランプ大統領も事件について遺憾の意を示したものの「様々な側から(on many sides)もたらされる憎悪、偏見、暴力に、可能なかぎり最も強い言葉による抗議を表明する」と発言し、明確に人種差別・白人至上主義への非難を表明しなかったことから、強い批判を浴びることになった。
その後、8/14にトランプ氏は「人種差別は悪だ。その名のもとで暴力を振るう者、KKKもネオナチも白人主義者も、そのほかのヘイト・グループを含む人々は、アメリカ人が大切にする全てのものと矛盾している」(ハフィントンポストより)という、12日のコメントに対する釈明のような発言もしたが、翌15日には、当日の白人至上主義団体の集会に反対していた勢力は極左勢力だったというニュアンスや、Alt Right(オルタナ右翼)という表現にイメージを重ねたAlt Leftという新しい表現を用いて、
「あの場にいた人たちは、まともに、合法的に抗議(protest)するためにいた」「ご存知ないかもしれないが、彼らは集会をする許可をもらっていた。反対派グループは許可を取っていない」「双方の側に言い分があるというということだけは言っておきたい。暴動が起きた当初はこの国にとってひどい出来事だと考えたが、しかし、2つの側面がある」「ネオナチや白人至上主義者らは徹底的に非難されるべきだが、しかし、あのグループの中にはネオナチでも白人至上主義者でもない人たちもいた。そしてメディアは彼らを不当に扱ってきた。そして、反対派のグループにも、いい人々もいたが、トラブルメーカーもいた。黒い服を着てヘルメットをかぶり、野球バットを持って向かっていった。相手のグループの中にも悪い連中はたくさんいたのだ」「オルトライトにを突撃したオルトレフトはどうなのか?彼らはゴルフクラブを振り回していた。彼らにも問題がある」
などと発言し、再び更に強い非難を浴びることになっている。
確かに反人種差別を訴える側にも、一部問題を複雑化させるような過激な言動を行う人々はいるだろう。例えば、今回の白人至上主義団体と反人種差別を訴える人々の間で起こった衝突で、自動車で群集につっこむという、昨今テロが疑われるようなケースで用いられている無差別殺人としか思えないような凶悪な行為がなければ、トランプ氏の発言のような表現で事態の沈静化を図ろうとすることも容認できたかもしれない。だが今回は白人至上主義側の人間が自動車で反人種差別を訴える人々に故意に突っ込み、負傷者だけでなく死亡者が出るような深刻な事態が起きている。そしてそもそも人種差別に繋がるような行動はアメリカでは確実に違法な行為である。殺人や暴行と同じようにそれ自体が非難されるような行為であることも考慮すれば、トランプ氏の発言は、実質的な人種差別・白人至上主義への寛容さ、悪く言えば彼自身も人種差別・白人至上主義を厭わない人物である事の表れだと思われても仕方がないのではないだろうか。
このような流れを受けて、ネット上では「人種差別は悪いことかもしれないが、それを全面的に否定するのは思想信条の自由に反する」というような主張をしばしば見かける。彼らはどうして自分達が言っていることの愚かさに気が付かないのだろうか。人種で人を差別するということはどんな理由があろうがそれ自体が基本的人権を侵害する行為に当たる為、決して容認されるべきではない思考だという前提が彼らにはないのだろう。もし万が一人種差別を肯定する思想信条の自由があるとすれば、同じような論理で殺人は犯罪だが殺人を犯す自由は誰にでもあると認めなくてはならないということになるだろう。要するに人種差別とは殺人などと同様に自由の範疇から大きく逸脱するものだ。ハッキリ言って人種差別を主張する自由などない。特に基本的人権の尊重を明文化して定めている国では確実だ。
どうも表現の自由とか思想信条の自由など自由というものを自分にだけ都合よく拡大解釈する人の声が大きくなっているような気がしてならない。まず自由とは責任と一体的に考えなければならないし、個人の自由は出来る限り守られるべきではあるが、その影響で他人の自由を大きく侵害するような場合には当然制限される。何故ならそれは逆に考えれば、他人に自分の自由が侵害される事態が引き起こされる恐れが生じてしまうからだ。
他国の詳しい状況は分からないが、少なくとも日本では、ネット普及以前はこのような馬鹿げた短絡的な考えを、声高に主張できるような状況は殆どなかった。なぜならそのような考えを持つ人はごく少数で、周囲に賛同者がいることは稀で、その種の主張をすれば愚か者扱いしかされなかったからだ。だが、ネットの普及で数少ない愚かな考えをもつ者同士の出会いが容易なった結果、彼らに自分達の考えは間違いではないという自信が生まれ、声高に主張を行うことを始め、それに影響される者が徐々に増えているのが現状なのだと思う。ネット、特にSNSの普及で多くの人が自分にとって不快な情報を遠ざける傾向が強まっているのだろうが、そのような馬鹿げた思考も持つ者を牽制するという意味では、積極的でなくても自分にとって不快な主張にもある程度目を向け、おかしいと思ったらおかしいと主張する必要があるのだと考える。