先月行われた横浜市長選では、多くの自治体で実施されている中学校での学校給食が横浜市では殆ど行われていないことに注目が集まり、その実現を目指すべきと、現職の林氏に対抗した候補らがアピール材料にしていた。彼らは結局落選したが、それ以後もこの件については市民や教育問題に関連する人々の間で議論の種になっている。BuzzFeed Japanも8/17に「給食に救われる子どもたち たった15分の昼食時間が格差社会を表している」という記事を掲載し、給食の重要性と共に横浜市の件にも触れいている。この記事を読んだ感想は、概ね記事の内容には賛同できるものの、問題性を強調したいが為にやや大袈裟すぎる想定に基づいた部分もあり、誠実な問題提起とは受け止め難いものだった。
記事は子供の中学進学のタイミングで横浜市に引っ越した母親が、中学で給食の提供が行われていないことに驚くという話から始められている。次に「機会の平等を通じた貧困削減」を目指して活動する認定NPO法人「Living in Peace」の代表、慎泰俊(しん・てじゅん)氏の主張を紹介する。その内容は、
「家庭から弁当を持っていける子どもにとっては、給食は必要ないし、物足りないかもしれません。でも、そうではない。給食は、すべての子どもたちのためのセーフティーネットなのです」
慎氏の言いたいことは分からなくもないが、「でも、そうではありません」の前後が噛み合っていないようにも思える。更に主張はこう続く。
「給食のない夏休みには、ごはんを食べられなくなる子どもたちが毎年、問題になります。ネグレクトで親から食事を与えられず、餓死寸前になる子もいます。給食があれば最低1日1食は食べられますが、そもそも学校が給食を提供していなければ、夏休みに限らず恒常的に、その1食すら確保できません」
この主張にも大きな間違いはない。だが違和感は感じる。自分は横浜市で高校卒業までを過ごした。全ての学校がそうかは分からないが、中学校でも給食が提供される小学校の時と同様に、クラス全員・教師揃って弁当を食べる昼食の時間が設けられており、もし弁当を持ってこない生徒がいれば教師か同級生の中の誰かが確実に気付く。連日弁当を持ってこないようであれば教師が異変を感じるか、同級生がそう指摘するはずで、もしそれが見過ごされるのであれば、教員も含めてクラス全体でその生徒をいじめている場合しか考えられない。流石に横浜市民はそんなに民度が低いとは思えない。要するに、給食があれば弁当持参より親の負担が減らせたり、生徒が食事を確保しやすいことは間違いないが、給食がないと誰にも気付かれずに生徒が餓死寸前になる恐れがあるなんてのは非現実的な話だ。慎氏のこの主張は、横浜市に限定していない一般論的な話かもしれないが、記事の流れ、彼が弁当と給食を比較して話をしていることから、横浜の件を念頭に話しているように感じられる為、一部の横浜市民は馬鹿にされているとさえ感じるかもしれない。
さらに慎氏は、
「「キャラ弁」などエスカレートしていく家庭弁当の文化について、「数百円で代替できるものに時間と労力をかけるなんて、資源配分として正しい方向ではない」
というハッキリ言って弁当否定、給食称賛したいが為に、全く偏った視点での主張を展開している。給食を持ち上げたいのは分かるが、その為に弁当文化を否定する必要が本当にあるのか。このような主張に反感を感じる人も決して少なくはないだろう。しかしその後に、
「弁当って、家庭の状況がかなり表れるものなんです。親がどのくらい時間と労力とお金をかけるか、各家庭のいろいろな”余裕”が見えてしまう。弁当にコンプレックスを抱えている子どもにとって、学校の昼食の時間は苦痛そのものになりえます」「制服もそうですが、子どもたちの格差の指標となりうるものについては、義務教育レベルでは揃えたほうがよいのではないでしょうか。こういった分野において、可能な限り、すべての人にあまねく同じものを届けるのが行政の役割だと思います」
と続けられているので、彼が懸念していることは理解できないでもないものの、彼の平等感がかなり極端な考えに基づいたものだということが窺える。個人的に彼の考えは全体主義的な平等感、もしくはあまりにも前時代的な平等感に見えてしまい、生徒らの個性の尊重を度外視するようなレベルだとさえ思える。現在の社会で問題なのは拡大する格差であり、各家庭環境が異なることではない。彼の主張は生徒らの個性や家庭環境が異なることすら認めないような程度のもので、ある意味では共産主義的過ぎるようにも思える。記事全体を読めば、彼は虐待を撲滅したいという健全で前向きな強い意志を持っているだろうことは想像が出来るが、その実現を目指す事ばかりに目が行き過ぎた結果、別の方向に偏った主張を行っていることに気がつけないような状態に陥っているように思える。
確かに学校で給食が提供されていれば親の負担は軽減されるし、慎氏の言うように、貧困状態にある生徒が少なくとも1食を毎日容易に確保できるという話も理解できる。しかし1食確保できただけでは全く問題の解決にはならないとも言えるのではないか。最悪の状況を防ぐセーフティネットとして機能させたいという主張は理解できるものの、その為に攻撃的なまでに弁当文化を否定することとのバランスが悪すぎる。個人的には弁当持参にもメリットはあると思う。小学校と違って中学生になれば、運動系の部活に所属する生徒もそれなりに多くなるし、生徒それぞれの食欲の差もかなり広がる。現に自分も弁当箱2つ分を持っていっていたし、同級生には自分の弁当箱1つの半分で充分という女子生徒もいた。個人がそれぞれで様々な調整が出来るのは弁当のメリットではないだろうか。慎氏が否定する”キャラ弁”を生徒が自ら作ることもありえるだろう。それをあのような言い方で否定するのは、場合によっては生徒の個性を否定することでもあると思えるが、それは子供の適切な教育を望んでいるであろう慎氏の立場と矛盾しないのだろうか。
誤解されないように再び書くが、給食の提供には多くのメリットがあることは理解できる。ただこの記事で慎氏がしているのはハッキリ言って言い過ぎ・大袈裟すぎる主張で、それは自分が感じたような本来必要ない反感を生む恐れも少なくなく、結果的に問題を複雑化させるだけではないだろうか。これでは全く本末転倒だ。