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おかしな校則から考える規制のあり方


 ハフィントンポストは8/21、「「肩を出す服を、校則で禁止するのは性差別」男子生徒がオフショルダーを着て抗議」という記事を掲載した。カリフォルニア州のある高校で、安全のためという理由で「女子生徒は肩を出した洋服の着用を禁止する」という校則が新たに導入されたことに対して、学生らが反対しているという。女子生徒だけでなく男子生徒も反対の意思を示し、女性向けのオフショルダーを着ることで抗議をしている事を取り上げた記事だ。記事では抗議している男子生徒の
 
学校側の『安全のため』という理由は、おかしいと思う。もし誰かが女性を乱暴をしたとしたら、悪いのは100%乱暴した側です。女性は一度だって、私たちを物扱いしてくれとか、乱暴してくれとか、レイプしてくれとか頼んじゃいません。安全のためという考え方は危険です
女性は敬意を持たれるべき存在です。それは自分を自由に表現できるということであり、個人としての自由に生きられるということを意味しています
『男性の気をそらすから、体を見せない洋服を着なければいけない』という考え方は、女性から主体性と意志力を、そして男性からは成長する機会をうばってしまいます。女性はこれまでずっとそんな考えかたに抑圧されてきました。そして男性は、『全ての男はセックスにしか興味がない』という考えを押し付けられてきました

という主張を紹介している。個人的には記事の見出しにあるように”性差別”と表現出来るほど深刻な事態かどうかには疑問を感じるものの、この校則に生徒達が感じる違和感・抵抗感には強く同意できる。これに対し学校側は、

今回の出来事は、校長として学校にどんな問題があるのか考えるためのよい機会でした。私たちは決して、洋服が原因で他の生徒の気が散っている、と言って女子生徒を責めたりはしません。また今回学校は、一貫したした服装規程を設けなければいけないということも、生徒たちから学びました

とし、生徒達と話し合い、この校則を改善する姿勢を示しているそうだ。


 この記事を読んだ最初の感想は「制服文化が根強い日本の学校では起こりえない種の事案」というものだった。しかし読後にしばらくこの記事についてモヤモヤと考えていると、実はそうではなく日本でも同じような事案が起こっていることに気が付いた。少し前にネット上で話題になっていた「うなじを露出することは性的興奮を煽る恐れがあるという理由で、ポニーテールは禁止」という校則を定めている学校が実在するという話は、この記事の件とかなり似ていると思った。ポニーテール禁止をする校則についても、肩出し禁止の校則に生徒らが違和感を訴えたのと同様に、ネット上では「うなじに欲情するかどうかは性癖による。それを懸念するなら他の部位についても同じような事があるだろうから、イスラム教の戒律のように女性は全ての肌を隠すべきとなるのでは」とか、「欲情すると判断して校則を作ったのは教員。ということはうなじに欲情しているのは、生徒でなく教員だけなのでは?」など滑稽だと捉える意見が多かったように感じた。日本では多くの学校で水泳の授業が行われている。性的に興奮させることを理由にポニーテールを禁止している学校では、水泳の授業の際に女子生徒はどのような格好をしているのだろう。それともその種の学校では水泳の授業は行われていないのだろうか。
 
 何か懸念に対応する為、懸念の主な理由になっているどこかで線を引き、包括的に規制を行うことで対処することは決しておかしいことではない。しかしその際に問題になるのは、線引きが本当に適切なのか、その規制の影響・副作用が大きくなりすぎないかなどだ。今年の通常国会ではかなり強引な手法で所謂共謀罪が成立した。政府は「テロ対策」として重要だと声高に訴えていたが、本当にテロ対策として有効なのかにも多くの疑問が示されていたし、強化される捜査機関の権限に対して抑止力となる仕組みがないことも強く懸念されていたのに、それについての納得のいく説明もないまま、法務大臣でさえ理解していないような状態にもかかわらず、数の力で法案が強引に成立させられてしまった。冒頭で紹介した記事の件では、校則を作った学校側が生徒達の訴えに耳を傾け、規制を改善する姿勢を見せているが、現在の日本政府は共謀罪の成立過程に問題があったとは感じていないようだし、当然内容にも問題はないという姿勢を変えていない。是非、記事で話題になっているカリフォルニア州・サンベニト高校、ラミレス校長の”真摯に生徒の声に耳を傾け、反省するべきは反省する”姿勢を見習って欲しい。

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